江戸時代に埋立て、大名屋敷を経て
海軍の街、文化の窓口に
築地とはずばり埋立地のこと。東京の地名由来辞典(竹内誠編 東京堂出版)によると「万治元年(1658年)、木挽町(現在の銀座1~8丁目)の海側を埋立地(築地)としたことにより、この辺りを築地と俗に呼ぶようになったという」とのこと。現在は1丁目から7丁目までとなっており、築地市場、場外市場があるのは5丁目、6丁目。国立がんセンター、朝日新聞本社などがあるのが4丁目になります。この記事では町名は築地ではありませんが、7丁目と隣接する聖路加病院などのある明石町も含めて取り上げます。
埋立後は次第に大名家の屋敷が増えたそうで、国立国会図書館デジタルコレクション中の江戸切絵図築地八町堀日本橋南絵図を見ると画面左中央部の隅にある、現在、浜離宮となっている濱御殿の対岸、現在の築地市場のあたりには尾張殿、松平安芸守、一橋殿、松平越中守などといった名まえが並んでいるのが分かります。
その後、幕末期に幕府軍艦操練所が現在の築地6丁目に作られたことから、明治以降海軍兵学校、軍医学校、兵学寮などが置かれ、海軍の街としても知られていたそうです。今昔マップon the webで1896年~1909年、現在の地図を並べてみると、ちょうど築地市場の辺りに様々な海軍関係の施設が集中しているのが分かります。逆にいえば、そうしたまとまった敷地があったから築地市場を作ることができたとも言えます。
また、明治期には30年ほど築地鉄砲洲(現在の町名では湊から明石町)に外国人居留地が設けられていた時期もあります。江戸から明治にかけての時代、築地は西洋文化の窓口とも言える場所だったわけで、立教大学、明治学院大学、青山学院大学、慶應義塾大学、暁星学園その他多くの学校がこの地で生まれています。実際、街中には今も居留地中央通りといった名称や立教大学、慶應義塾大学発祥の地などといった碑が点在、日本の技術、学問揺籃の地であったことを偲ばせます。
関東大震災を機に魚市場が移転、
今では観光地化
その築地に魚市場が移転してきたのは関東大震災がきっかけ。江戸時代から魚市場として栄えてきた日本橋が関東大震災で大被害を受けたためで、折から中央卸売市場の計画を進めてい東京市は日本橋の魚河岸、京橋にあった青物市場を築地に集中させることにしたのです。途中、芝浦への仮移転などを経て築地に広さ約23万平米の東京都中央卸売市場が開設されたのは昭和10年2月です。
都内に11ある東京都の中央卸売市場のうち、最古の市場であり、水産物、青果物を総合的に扱っています。供給圏は、関東近県に及んでおり、特に水産物については世界最大級の取扱規模なのだとか。最近では場外市場を目当てに朝早くから観光客が集まるようにもなっており、一大アミューズメントスポットとすら言えます。
しかし、ご存じの通り、築地市場は2016年11月上旬を豊洲への移転を予定しています。それによりより清潔で、広い市場にというわけです。これについては移転先豊洲市場の土壌問題、新しく作られる観光施設の運営問題その他問題が山積みですが、それは置いておくとして移転を前提とすると、場外市場は残るものの、街の雰囲気は大きく変わります。市場があることで周囲には食品、飲食関連の多数の店舗、事務所、倉庫その他がありますし、意外に小規模な工場なども多いのが現状ですが、移転となればこの地で営業を続けないことや廃業も考えられます。
それを懸念して築地に残る大正から昭和初期の約30の木造建築をワールド・モニュメント財団が危機遺産に選定したのは2015年10月。築地が高度経済成長期、バブル期にもあまり影響を受けずに昔ながらの街並みを維持してきたのは市場があったためと言われており、今後、それが無くなり、市場敷地跡に環状2号線が開通、さらに再開発が行われるとしたら風景は大きく変わるでしょう。
2010年前後からマンション建設が
徐々に増加中
実際、街を歩いてみると小規模なビル、マンションなどを建設している現場が点在、空地、空き家となっている建物なども目につくように。すでに2010年頃から13棟ほどのマンションが販売されており、その動きは今後、さらに加速しそうです。
まとまった土地が少ないため、新築マンションといっても対岸の勝どきのような大規模な物件はほとんどありません。多くても100戸くらいまでが中心。今後もこの傾向が大きく変わることはないでしょう。
築地市場以前の歴史も踏まえて考えると、何度も変化してきた街築地。次なる変化がその歴史を踏まえたものであることを祈りたいところです。