物分かりのいい大人こそ、「ただの放任」の危険性を知っている
どんなに子どもに嫌われようとも、大人が担う役割を再認識しよう
中学生といえば、大人の階段を昇り始め、夜遊びにも興味の出る年頃で、それは自然なことです。好奇心旺盛な思春期の子どもたちに対して、振る舞いにあれこれ口を出すとその成長の芽を摘んでしまいはしないか、または自立を阻んでしまうのではないか、と遠慮する大人もいるでしょう。
でも、物分かりのいい大人こそ、「ただの放任」と自立は違うことを知っています。成長の芽を摘むのでなく、好奇心旺盛な思春期の子どもたちに対してどう働きかけ、助言するか。「ここから先はやめておこう」「なんとなく危険を感じる」など、未体験の事象に対するブレーキをどうやって持たせるか。そのアプローチの軸となるのは、大人の冷静な理解です。度胸試しにワクワクしてしまう子どもたちの好奇心や冒険心は、夜遊びでしか解消できないわけではないということも、さまざまな経験を積んだ大人だからこそ知っていること。少年少女の好奇心や冒険心を受け止めて否定せず、でも「一線は越えない」ために必要なのは、少年少女に「夜に出歩くことで君たちが出会う可能性のある危険」を真正面から冷静に教えるのです。それは、セックスや暴力やお金、ドラッグといった、大人や年長者から子どもへ向けられる明確な悪意であり、その結果として傷つき身も心も血を流すのは自分であるという事実を事例を交えて教え、「親の庇護のもとにある未成年である限り、外泊や夜遊びはするべきでない」という明確なメッセージを伝え続けることです。この点に関して、大人は大人にしかない役割を負っており、ブレたり迷ったりしてはいけないのです。
また、家出をする子どもたちは、ただどういう形でもいいから「安らげる居場所」を求めていることにも気づいてあげたいものです。セックスや暴力を代償にしなくても安全に逃げ込むことのできるシェルターのようなものが街に用意されていれば、路上で夜を明かさなくて済む子どもたちがいるかもしれません。また、夜間に様子がどうもおかしいなと思うような子どもを見たら、直接声をかける勇気がなくても警察には通報するなど、たとえ子どもたちからはどんなに嫌がられ憎まれようとも、都会の大人の義務として取るべき行動があります。
今の時代、親や大人の監督は子どもの生命線としての意味を持ちます。だから自治体も地域も学校も躍起になって、青少年を巻き込む犯罪の予防に注力しているのです。青少年の非行を防ぐため、夜間に民間ボランティアで見回りを行うコミュニティもたくさんあります。中田宏・元横浜市長の「子供の深夜外出は親の責任」発言にも、在任中に少年非行防止に取り組んだひとならではの「その正論が簡単には機能しないとわかっているからこそ、あえて言う」という思いが滲みます。
『スタンド・バイ・ミー』にあって寝屋川にはないもの
暗闇への恐怖の欠如に、心の暗闇を持つ人間がつけ込む
闇は、本来ひとが本能的に恐れるべきもの。「映画『スタンド・バイ・ミー』を見ろ。子どもが成長過程の中で好奇心の赴くままに家出や外泊すらできないいまの時代は世知辛い、野暮だ」という向きの意見は理解できなくもありませんが、『スタンド・バイ・ミー』の世界にはひとのつながりがあり、森があり、ちゃんとした闇があったことを忘れてはいけません。
暗闇は、人間の暗闇でもあります。闇を恐れなくなってしまった現代では、13や15での駅前の夜遊びは『スタンド・バイ・ミー』ではなく、文学的な冒険でもなく、下劣な悪意を持つ人間が近づいてくる犯罪遭遇リスクです。大人も子どもも便利な都会の生活のどこかで失ってしまいましたが、理屈抜きに闇を恐れる気持ちこそが、世間を生き延びるにあたって持つべき本能的な感覚のようなもの。それが、不審者を見抜く力にもつながるかもしれません。