震災で残った横浜市開港記念会館関東大震災の住家全壊率と震度分布。内閣府広報ぼうさい 29号 20ページより。2007年5月(クリックで拡大)横浜港変遷図。横浜市港湾局企画調整部企画調整課内閣府防災情報ホームページ「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月 1923 関東大震災」より大桟橋は陸地側の3分の2ほどが崩壊したそうだが、現在の赤レンガ倉庫、当時の官設3階建煉瓦倉庫は残り、現在も利用され続けている(クリックで拡大)崩壊はしなかったものの、焼失。その後、取り壊されて現在の姿になった神奈川県庁(クリックで拡大)開港記念館と道を挟んで反対側にある震災時の遺構。震災後の建物の中に煉瓦の壁が残されていたもので、建物を取り壊し時に発見され、現在は補強の上、公開されている(クリックで拡大)大正6年に建設され、震災では壁と時計塔を残して焼失、その後の復旧工事を経て今に残る(クリックで拡大)中華街も被害がひどかった地域。このエリアはその後、戦災でも焼け野原となった(クリックで拡大)横浜公園内には公園の歴史が記されている。面積6万平米に6万人が逃げ込んだそうで、惨事に至らなかったのは幸いだった(クリックで拡大)横浜公園内には噴水、公園周りの塀その後、震災から生き残った人の手で作られたものなども残されているという(クリックで拡大)当時の煉瓦造りの建物は屋根が銅板などで覆われており、その部分が火に弱く、屋根から火が入り、焼失するケースが多かったそうだ(クリックで拡大)山下公園と道を挟んだところにあるホテルニューグランド。その昔はこの通りに外国人が経営する会社や倶楽部、ホテルなどが建ち並んでいた(クリックで拡大)散策する人で賑わう山下公園。都市の海を身近にした存在でもある(クリックで拡大)大桟橋のたもとに飾られていた、桟橋を支えていた杭。注意して歩くと市内には多くの歴史的な遺構が残されている(クリックで拡大)関東大震災後の横浜の写真に主要な建物の位置を記載したもの(クリックで拡大。大里重人さんにご提供いただきました)前出の写真の撮影地点。赤い線はドッドウェル商会の日本総支配人で、関内から山手に逃げたO・M・プール氏の足跡を記したもの。プール氏は後に震災の記憶を書籍にまとめている(クリックで拡大。大里重人さんにご提供いただきました)被災後の横浜中心部の写真。一部を除いてほとんどが倒壊、焼失していることが分かる(クリックで拡大。大里重人さんにご提供いただきました)前出の写真が撮影された横浜中心部の地図。赤い線は後日震災の記憶を書籍にまとめたドッドウェル商会のO・M・プール氏の足跡。位置が分かるよう現在の施設なども混在している(クリックで拡大。大里重人氏にご提供いただきました)被災後の横浜中心部。瓦礫の山という言葉が実感できる(クリックで拡大。大里重人氏にご提供いただきました)この写真の記事を読む※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。