日本の城郭史上に大きな影響を与えた総構
小田原城見学というと、城址公園だけを見て帰ってしまう人が多いかも知れませんが、それではもったいない。
壮大な小田原城全体の規模や、小田原合戦がどのようなものだったかを知るには、やはり、北条氏が築いた、小田原の城と町を囲む「総構」の遺構を見る必要があります。
ところで、もともと我が国には、城や城下町を土塁で囲むという発想はありませんでした。それでは、北条氏は何を参考にしてこのようなものを造ったのでしょうか?
「ういろう」の八棟造りの店舗外観
小田原には外郎(ういろう)家という、室町時代から続く商家があります。外郎家の先祖は、中国大陸から日本に渡り、その後、北条家に招かれて京都から小田原に移ってきたのだそうです。おそらく、製薬をはじめとする大陸伝来の知識や技術を得るために招聘(しょうへい)されたのでしょう。
先日、外郎家の歴史などをまとめた別の記事の執筆のため、現在の外郎家当主である外郎武氏のお話をうかがう機会があり、その中で外郎氏は、「外郎家は北条家の軍師のような役割も担い、中国の城郭都市をヒントに「総構」の構築を北条氏にすすめたと伝わっている」とおっしゃっていました。
※「総構」の成立過程については文献が残っておらず、他の意見を述べておられる方もいます。
総構の堀は、今は茶畑になっている部分もある
小田原合戦で、「総構」の様子を見た豊臣方の武将たちは、「これをまねしない手はない!」と、国元に帰ると自分の城にも外郭をつくったようです。そして、秀吉自身も「総構」を真似して、あるものをつくりました。それは、京都の街(洛中)を取り囲んだ「太閤の御土居(おどい)」です。
このように、北条氏は小田原合戦で敗戦したものの、小田原城はその後の我が国の城郭史上に大きな影響を与えたのです。
なお、今現在、当時の「総構」の姿がよく残っている場所は限られていますが、今回、山本さんに案内していただいた中で、最も印象に残った場所をご案内します。
■小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)
小峯御鐘ノ台大堀切(東堀)を歩く
小田原城の西側に位置し、箱根外輪山から本丸へ続く丘陵の尾根を直角に分断する3本の堀(東堀、中堀、西堀)がつくられています。西国からやってくる秀吉を迎え撃つ上で、城の西側の防御は特に重要視したようです。
特に当時の様子がよく残されている東堀は幅20~30m、堀の底から土塁上部(天端)までの高さは12mもあり、堀としては全国的にも最大規模だそうです。また、西堀に関しても、今まで個人所有地だったため立ち入りできませんでしたが、このほど市の文化財用地として公有地化され、2016年7月5日より公開予定とのことです。
堀の中は歩けるので、攻め手の気分になって歩いてみるのもいいかもしれませんね。
■総構の遺構 小峯御鐘ノ台大堀切
小田原市公式サイト
■小峯御鐘ノ台大堀切 西堀について
小田原市長の日記
太閤一夜城址へ
さて、小田原の歴史散歩、最後は「石垣山一夜城(太閤一夜城)」の城址である「石垣山一夜城歴史公園」へ行ってみましょう。
「石垣山一夜城」へはバスなどの公共交通機関がないため、JR東海道線で小田原駅の一つ先の早川駅から徒歩、またはタクシーで向かいます。
石垣山一夜城石垣。石を整形せずに積む「野面積(のづらづみ)」は高度な技術が必要とされる
「一夜城」はご存じの通り、小田原に攻めてきた秀吉が、小田原城守備のあまりの堅固さに舌を巻き、なんとかして小田原城の将兵の気持ちを萎えさせようとして考えた奇計です。
小田原城から見える笠懸山(かさかけやま)の上に城を築き、城の完成とともに周囲の樹木を切り払って、あたかも一夜にして城を築き上げたように見せたという言い伝えがあります。
この話から、ハリボテの城を造ったのではないかと思われがちですが、実際に行ってみると、かなりしっかりした石垣が今も残っており、「関東初の本格的な総石垣の城」とも評価されているのです。
「井戸曲輪」の石垣
「石垣山一夜城」で、一番のオススメポイントは「井戸曲輪」。淀君が使ったとされる井戸「淀殿の化粧井戸」の跡です。周囲の石垣がとてもよく残っていて、当時の石垣構築技術を知ることができます。
■石垣山一夜城歴史公園
小田原市公式サイト
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