『貴婦人の訪問』観劇レポート
「人間の弱さ、複雑さを究極のシチュエーションで描き出す
愛憎のアレゴリー(寓話)」
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
工場が閉鎖され、財政破綻寸前の町ギュレン。陰鬱なコーラスで窮状を歌う市民たちは、億万長者クレアの帰郷に一縷の望みを託し、ロック調に転じたナンバーに乗って熱狂的に彼女を出迎えます。市長マティアス(今井清隆さん)、校長クラウス(石川禅さん)、警察署長ゲルハルト(今拓哉さん)、牧師ヨハネス(中山昇さん)の男性4人の肉厚な声がリードするこの冒頭は迫力満点ですが、その中でひとりペーソスを漂わせる石川さんの歌声は、後々、狂気じみた集団の中で人間性を保とうと悶える人物像への布石となり、効果的です。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
ヘリコプターで飛来し、いかにもセレブ然としてボディガードとともに現れるクレア(涼風真世さん)。色めきたつ人々にも眉ひとつ動かさず、超然とした姿は彼らを圧倒しますが、去り際に雑貨屋の主人アルフレッド(山口祐一郎さん)に「後で」と囁きます。若かりし日、クレアの恋人だったアルフレッドは、今や町への支援を引き出す切り札。市長たちの期待を背負って思い出の森を訪れ、やってきた彼女との間に甘いムードを醸し出そうとするアルフレッドですが、クレアが心を許すそぶりはありません。それもそのはず、その夜の歓迎晩さん会で、クレアは20億ユーロもの支援の条件として、昔彼女を捨てたアルフレッドの「死」を要求するのです。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
常軌を逸した申し出に、市長をはじめとする人々は激怒。歌いながら彼らが刻々と、かつ複雑にポーズを変え、一つの蠢く個体のように見えるナンバー「とんでもない」では、この時点でのギュレンの民衆の良心と団結が、みごとに表現されます(振付・桜木涼介さん)。それに続くアルフレッドの店のシーンでも、妻のマチルデ(春野寿美礼さん)が「あなたを守り抜くわ」とアルフレッドへの愛と決意を柔らかく、幸福感さえ漂わせながら歌いますが、ポジティブな成り行きに観客が安堵するのもつかの間、民衆は「もし20億の金が分配されたら」と夢想を始め、アルフレッドに向けられた視線も意味ありげになってゆきます。追い詰められたアルフレッドは、そして追い詰めるクレアは……。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
20世紀に顕在化した“物質主義”や“全体主義”に加え、時代を問わず普遍的な“人間の弱さ”を風刺した、デュレンマットの原作戯曲。その主筋である、ある種荒唐無稽な復讐劇のトーンは、よく整理された台詞と歌詞、そして畳みかけてくるようなヘビーな曲調を通して、ミュージカル版にも継承されています。しかし、ともすれば見ている側さえ精神的に追い詰められ、逃げ場のない仕上がりになりかねないこの素材を、今回の日本版は山田和也さん演出のもと、絶妙の匙加減で上演。ストレートプレイを見ているようなコクがありながらも、日本人の生理に合う舞台となっています。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
その匙加減の鍵となっているのが、西洋演劇の根幹をなす「リアリズム」と、日本の伝統芸能の特徴でもある「様式性」のブレンド。例えばクレアを演じる涼風真世さんは、氷の心の奥底に少女時代の愛を秘め続け、それがアルフレッドとのやり取りの中で時折ほとばしる様をリアルに表現していますが、「よく考えてからお返事を」等、冷たく言い放つ台詞は歌舞伎の“大時代”の台詞回し的なスケール感で発し、観客に聴覚的な快感を与えます。また終盤に大きな変化を遂げるマチルデ役の春野寿美礼さんも、最後の重要な行動を生々しく見せるのではなく、きりりと様式化。こうした瞬間が全編にほどよくまぶされることで、観客もふと客観的なスタンスに立ち返り、心理的な圧迫が和らげられるのです。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
もう一つ、今回の舞台で非常に興味深いのが、アルフレッドという人物の描写。はじめは被害者に見えるも、事情が分かるにつれ、突然の災難が“自業自得”にも見えてくるこの人物、限りなく“黒”に近く表現できそうなところを、山口祐一郎さんは“白にも黒にもゆらめくグレー”として、振り幅豊かに表現しています。登場間もなく、ヘリコプターの粉じんで汚れた妻の服の裾をさりげなくはたくしぐさに愛情深さを見せるも、それから間もないクレアとの逢引のシーンでは「君無しの人生は地獄だった」と、妻との夫婦関係が欺瞞であるかのようなことを言ってのけ、それがクレア援助を引き出すための“リップサービス”なのか、あるいは本心なのか、判然としません。その後も彼の愛がどこにあるのか、そもそも彼の中で愛がどんな意味を持つものなのか、謎は深まるばかり。決定的な独白のナンバーは無く、基本的に第三者との対話でばかり言葉を発しているため、いかようにも解釈しうるアルフレッドは、人間がいかに複雑で、同時に弱いものであるかを象徴するキャラクター。時にユーモアを湛え、しなやかに白と黒のあわいを揺れ動く山口さん、新たな当たり役誕生と言えましょう。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
舞台の充実は演技面にとどまらず、オーケストラ演奏(指揮・金子浩介さん)は『エリザベート』の登場以降、私たち日本人がウィーン・ミュージカルの音楽に抱いているイメージを損なわない、厚みのあるサウンド。また始めはどこかパッとしないギュレンの人々の服装が、富の分配を夢想し始めてからためらいなくクレジットカードで買った“憧れのファッション”へと変わり、さらにラストシーンでは一種シュールな結末を予感するかのごとく近未来的ともロボット的とも言えるコスチュームに変わってゆく衣裳(前田文子さん)も、ストーリーにぴたりと呼応し、もう一つの見どころとなっています。
『貴婦人の訪問』写真提供:東宝演劇部
“ブラックな喜劇”にジャンル分けするにはあまりに衝撃的なストーリーではありますが、いっぽうで本作は“価値観”についてのシンプルな寓話であるようにも見えます。アルフレッドもクレアも物質主義に身を任せますが、年月を経て結局のところ、その心は空虚なまま。昔を語りあう森での逢引シーンで、何も持たずとも愛に満たされ、この上なく幸福な“若き日の二人(寺元健一郎さん、飯野めぐみさん)”を実際に背後に配し、現在の二人と対比させることで、人生の充足感は価値観次第であることが明確に浮かび上がります。もしも“金”でなく“愛”を選んでいたなら、彼らの人生はどう展開していたことか……。そんな苦々しさ漂う光景にどこか身につまされながらも、多くの観客はそれぞれ自身の生き方を、今ひとたび見つめ直すのかもしれません。