ルーツは”舞台”
キャリアを捨てて選んだ挑戦
渡辺謙のルーツは舞台にある。新潟県の高校卒業後に上京し、岸田今日子、橋爪功らが所属する演劇集団「円」に付属の研究所を経て入団。研究生時代にオーディションを受け、唐十郎作・蜷川幸雄演出の舞台『下谷万年町物語』で主役の”青年”役に抜擢された後は、主に「円」が製作する舞台に立ちながら、映像の世界にも活躍の場を広げていく。
1985年に公開された伊丹十三監督映画『タンポポ』で、山崎努演じるゴローの助手・ガンを、1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』では主役の伊達政宗を演じ、国民的俳優となった渡辺は、1988年に再び蜷川幸雄とタッグを組む。
その時に彼が演じたのはシェイクスピア作『ハムレット』のタイトルロール。演出家・蜷川幸雄は、シェイクスピア等の古典作品を斬新な舞台装置や演出で立体化し、当時の演劇界に大きな波を起こしていた。
『ハムレット』でも蜷川は日本の巨大な雛飾りを舞台に建て込み、段飾り=階段をそのままセットとして使うなど、かなりキレのある演出を見せ、更に『独眼竜政宗』を終えた渡辺謙の主演作という事も相まって、この舞台は大きな話題となった。
そして渡辺謙は、その後2回の急性骨髄性白血病の治療を経て、2001年には古巣の「円」で『永遠 Part2』の舞台に立ち、これを最後に「円」を退所。映像の世界……ハリウッドへと旅立っていく。
渡辺謙が『永遠 Part2』以降舞台に立ったのは、2013年の『ホロヴィッツとの対話』(作・演出三谷幸喜 PARCO劇場他)。なんと12年の時を経ての舞台出演だった。
私はこの時の舞台『ホロヴィッツとの対話』が、今回の『王様と私』への挑戦に繋がっている気がしてならない。12年振りに舞台に立ち、毎回リテイクのきかない生の空気の中で芝居をし、渡辺の心の中に何かが去来したのではないだろうか。
渡辺謙はプロフェッショナルのインタビューの中で、「一度すべてのキャリアを捨てなければ次の場所での成功はない」と語っている。映像の世界で華麗なキャリアを手にした渡辺が、それまで培ったものを一旦捨てて挑戦したのは彼のルーツ=舞台だった。
ハリウッドもそうだが、ブロードウェイでも日本人を含め、アジア人の俳優が大きな舞台に立つことは非常に難しい。それも主役となれば尚更だ。たった一人でブロードウェイの稽古場に飛び込み、英語がネイティブの俳優でも歌うのが困難と言われる韻を踏んだ歌詞のナンバーに苦しみ、寝言でも歌い続ける……。
55歳……ある程度の地位が約束されている普通の人間は、この年齢で恥をかきながら新しいチャレンジをしようとは思わない。でも彼はそれをやってのけ、日本人としてほぼ初となる、トニー賞の「主演男優賞」にノミネートされたのだ。
俳優が舞台の上で役を演じ、観客にギフト……感動や勇気を与えることは珍しくない。だが、渡辺謙はその生き方でも私たちに「希望」や「夢」という言葉を体現して見せてくれた。彼のこの挑戦に胸を打たれた熟男世代の大人たちも多いのではないだろうか。
日本時間の6月8日(月)、アメリカ演劇界最高の栄誉であるトニー賞の授賞式当日、渡辺謙の栄光の姿を彼の故郷である日本から、しっかり見つめたいと思う。
◆関連記事
渡辺謙がノミネート!米演劇界の祭典・トニー賞って?