今回は、2013年9月に大阪駅前のグランフロント大阪にオープンした「リプロダクションクリニック大阪」に取材をさせて頂きました。このクリニックは泌尿器科医が男性不妊を担当し、婦人科医が女性不妊を担当し、両方から同時にアプローチできる日本初のクリニックとして、注目を浴びています。既に関西でも有数の不妊専門クリニックに成長しました。そんなユニークなクリニックを立ち上げた石川先生(CEO)の生い立ちから、クリニック誕生の経緯、今後のビジョンなどを詳しく語って頂きました。

それではインタビュー内容をどうぞ!

なぜドクターになったのかを教えてください

りプロダクション大阪

理事長の石川先生

家系が全員医師、祖父も医師、父も医師、伯父さんも叔父さんもほとんどが医師ということで医師になるのが当然という環境で育ちました。姉2人、妹も医師として活躍しています。

実家は180床の病院で地域医療を行っており、その中で病院スタッフとともに育ったこともあり、医師になったことは自然の流れのように思います。子供は私が男一人だけだったので、私が実家の病院の跡取りになることは最初から決まっていたような感じでした(笑)。

中学受験で愛媛の愛光学園に入学し、中高と寮生活を行っていました。この寮生活が私の人間形成のほぼすべてを占めているといっても過言ではないくらい、仲間と強烈な毎日を過ごしました。最後は悪さの度が過ぎて退寮になってしまい、高校生ながら一人暮らしをしていました。自立心をもって、自分で何とかしていかなくては、という信念はこの時からのもので、怪我の功名だったかもしれません。遠く離れていた両親には心配と迷惑を大いにかけました。愛光学園は医師の子息も多く、医学部に行く人が多い男子校でした。そして大学は地元に戻り、神戸大学医学部に入学しました。

父をはじめ、周囲の人間はほぼすべて外科系で、ダイナミックな手術で患者さんを治したいという思いの中、まず外科医になろうと考えていました。研修医時代、消化器外科をはじめとして様々な診療科で研修をさせていただき、メジャー外科は成長するのに時間がかかりすぎると感じていました。自分としては早く実力をつけていきたい、そして世界に出て活躍したいという希望がありました。そして比較的早く術者になれそうな泌尿器科と整形外科とで迷い、最終的に泌尿器科を選びました。
りプロダクション大阪

クリニック受付


そして、これから高齢化社会において、糖尿病も増え、腎不全も増えてくるだろうと思い、入局後は腎移植をしたいと考えていました。

それでは、なぜ男性不妊を専門にしたのか?実は大学院の選考の時に腎移植希望が二人いて、じゃんけんで腎移植か男性不妊かを決めなければいけませんでした。そんなことで専門を決めているのかと思われるかもしれませんが、当時はそんなものだったのです。

そのじゃんけんで負けて、男性不妊をやることになったのです。運命でした。希望の専門を選べなかったということを楯にアメリカへの留学を強く希望しました。そもそも父がアメリカで医師をしていたこともあり、医学生のころから世界を舞台に、という思いはありました。様々な思惑と要因が絡み合い、卒後4年目から、そして大学院時代に留学というありえない経験をさせて頂きました。ニューヨークマンハッタンのロックフェラー大学に3年程度いました。

ロックフェラー大学、コーネル大学医学部、スローンケタリングメモリアルがんセンターは敷地が隣接しており、IDがあると3つともアクセスできるという特徴がありました。そこでロックフェラーのボスにマイクロTESEの創始者でもあるコーネル大学のピーター・シュレーゲル医師を紹介していただきました。
りプロダクション大阪

クリニックのロゴマーク


コーネル大学において、1998年にマイクロTESE(注)は始まったのですが、私がいたのが2003年から2005年ということで症例がどんどん集まってきているところでした。彼がチェアマンにもなったところで、非常に勢いがありました。共同研究でヒトの精巣組織をもらいにコーネルの手術室に行く役割を頂いたのがきっかけで、親密な関係になっていきました。

(注)マイクロTESE:無精子症や重度の射精障害の場合、精巣から直接精子を回収する方法。顕微鏡下で手術は行われる。

休日に行われる手術では、携帯電話に連絡があり、「今から来るか?」という感じで、偉そうにしない紳士でした。そこでさまざまなディスカッションに参加することが出来ました。この技術とモチベーションを日本に持って帰ると、日本の中では必ずや自分がオピニオンリーダーとして力を発揮できると思いました。すべては人脈から始まったという訳です。

帰国して神戸大学病院に戻り、2006年から男性不妊診療を開始しました。幸いなことに様々なクリニックで外来と手術を行うようになりました。中でも私にとって一番大きかったのは英ウィメンズクリニックとの出会いでした。ここで男性不妊外来を立ち上げ、最初の男性不妊外来では患者が3人だけでしたが、のちに50人まで増えることとなります。

当時、英ウィメンズは急成長し、採卵数が急速に増えてきているところだったので、精子減少症例における精索静脈瘤手術だけでなく、無精子症例におけるTESEの紹介も増えていきました。2008年だけでも70症例程度TESEを行ったと記憶しています。いろんな意味で、大学病院では生殖医療臨床はまず不可能なのですが、大学病院に属しながら、これだけの症例数を経験できたのは、非常に大きかったと思います。

当時、私は大学医学部の教授になりたいと思っていましたので、とにかく時間があったら論文を書いていました。後輩の研究指導だけでなく、難しい大きな手術にも積極的にチャレンジさせて頂き、帰宅せずそのまま大学に泊まることは日常だったように思います。しかしながら、自分の思いとは裏腹に、大学では我慢を強いられる場面があまりに多く、ここにいてはこれ以上成長できないこと、自分が腐ってしまうのではと感じ、紆余曲折ありましたが、医局を辞めることとしました。ずいぶんと頑張っていましたので、アカデミックポジションを捨てることは、いろいろな方から考え直すよう諭されましたが、もう前しか向いていませんでした。

時を同じくして、国際学会でオーストラリアメルボルンのモナッシュIVFの男性不妊部門の責任者でもあるロバート・マクラクラン先生と知り合い、研究もできるということでモナッシュ大学に誘われていました。そこでオーストラリア政府から研究予算を自ら獲得して、2度目の留学をすることとなりました。そこでもマイクロTESEを導入したいという話があって、婦人科医や胚培養士相手に何度も講演し、指導も含めて導入しました。1年半ぐらいメルボルンにいましたが、その後2010年に日本に帰国しました。

帰国後は男性不妊の患者さんを自分の実家である兵庫県姫路市にある石川病院に集めるようになり、また大学と違って自由が利くので、全国各地の不妊専門クリニックで男性不妊外来や手術を担当することになりました。

英ウィメンズクリニック(神戸)、木場公園クリニック(東京)、岡山二人クリニック(岡山)、京野ARTクリニック高輪(東京)、福井ウィメンズクリニック(松山)などにマイクロTESEシステムを導入し、各地の胚培養士とともに症例を積み重ねていきました。

私自身のTESE執刀症例としては、2011年に143症例を実施しています。2012年で223例、2013年で292例、2014年352例とまだ増えてきています。日本だけではなく、世界で最も多く執刀しているといわれています。私自身ももちろんそうですが、我々の胚培養士、看護師などのスタッフも世界一症例を経験しているチームです。

症例数は多くなり、毎日毎日手術を行っている状況ですが、患者さんにとっては人生を変える一生に一回の手術。一例一例を大事にするという思いは変わりなく、魂を込めてやっています。全国各地から頼って来られる患者さんの期待に応えられるよう、また精子回収できなかったとしても納得して次のステージに進んでいただけるよう、医を尽くしています。

そして、現在男性不妊診療を出来る医師と胚培養士をはじめとするコメディカルを育てています。しかし、不妊臨床の教育がなかなか難しい。大学病院でまったくやっていないという現状があるので、若い医師や胚培養士が飛び込める環境にない。どんな医療でもそうですが、まずきっかけがないとのめりこむことができない。

英ウィメンズクリニックや石川病院では神戸大学の後輩でもある山口医師に男性不妊臨床をすべて任せています。岡山二人クリニックの場合は川崎医大の原医師に技術を伝授して、男性不妊外来手術を担当してもらうまでサポートしました。

特に生殖医療は泌尿器科の分野だけでは全く対応できないわけで、リプロダクションクリニック大阪のような女性不妊と男性不妊の両方が学べる施設での研修が必要と考えています。これまでの男性不妊専門医は女性不妊を知ろうとしなかった。TESEで精子回収して終わりだったわけです。しかし患者カップルは挙児にむけて受診し、様々な治療を受けているわけですので、男性側女性側両方の側面を知った上でお話しをするのと、後は婦人科医に聞いて、というのでは全然違うと思うのです。

そして、今年度からまた、新しいドクターがリプロダクションクリニック大阪に研修に来られています。専門ではない施設からドクターを受け入れる体制が整いつつあります。