ゲッカンプロボーラーはベンチから応援します
ガイド:HIDEさん、おひさしぶりです。いままではゲッカンプロボーラー(ゲツプロ)の一員としてお兄さんのyaskikutaさんとご一緒にインタヴューさせていただく形でしたが、今回はちょっと趣向を変えて、ダンスミュージック・シーンについて対談ができればと思っています。よろしくお願いします!
HIDE:
そうですね、今回はリリースのタイミングでもないですし、四方さんと対談というのは初ですね。よろしくお願いします。
ガイド:
ゲツプロの方ですが、HIDEさんはそちらの活動の方はしばらく離れるとか…別に兄弟ケンカとかではないんですよね?
HIDE:
兄弟ケンカではないですね(笑)。歳も5つ離れているので、僕が生まれた頃に兄は自転車乗ってましたし、オレンジジュース飲んでた頃にはお酒飲んでいました。やはり、どこかで「敵わない」と思っているのでしょうか…。ケンカするまでに至らないですね。
元々僕は金魚の糞のようにゲツプロ(当時は月刊プロボーラー)にずっとくっついていて、マネージャーみたいなこともしていて、メンバー外では常に一番近いところにいたんですよね。そこで当時のメンバーが抜けるタイミングがあって加入したのですが、新しい何かをと言うよりはもっと色んな人に聴いてもらいたいという想いでした。延長戦で途中出場するような感覚です。それで4、5年やってきてゲツプロが今新しい試合に挑もうとしているので、僕の役割は終わったな、と。またベンチから一番大きい声を出して応援しますよ (笑)。
ガイド:
なるほど。今後は、HIDE名義でソロ活動とかあるんですか?
HIDE:
しばらくはDJとオーガナイザーをやりたいようにやって、それで形が出来てきたらまたライヴもやりたいですね。ライヴをやるにしても現時点での選択肢だとインストのものになると思いますが、いずれは一緒に作りたい人、歌ってほしい人も何人かいます。
ダンスミュージック・ヒストリー
ガイド:「7th SUMMER of LOVE」という新しいダンスミュージック・イベントを横浜でスタートさせるとのことですが、そこに至った経緯を理解するためにも、まずはHIDEさんのダンスミュージック・ヒストリーについて伺わせてください。僕のような今、50代の世代では、ダンスミュージックというとクラブというよりもディスコから始まります。わかりやすく言えば、1978年あたりの「サタデー・ナイト・フィーバー」で盛り上がり、その後テクノポップとかも含めたニューウェイヴものもかけてくれるディスコが1980年初期に登場した頃に、一番ディスコに行きました。HIDEさんの世代はどうなんでしょう?
HIDE:
いわゆるディスコブームの時代、僕はまだゆりかごでビートをとってたぐらいでリアルタイムでは体験していないんですよね。自分の意思で音楽を聴いたり買ったりし始めた頃はバンドブームがあって、一方で新宿リキッドルームのオープニングパーティーにUnderworldが初来日したり、僕はそっちを追ってました。それから少し上の世代ではユーロビートが流行り始めて、小室哲哉さん監修のシンセサイザー「EOS-B900」は初めて買った楽器です。年齢的にネオン街に遊びに行く頃にはもうディスコはなくクラブでしたね。それが1994年~2000年ぐらいにかけての話です。四方さんはこの頃音楽とはどう関わっていましたか?
ガイド:
90年代、正確には1997年に(techno-electro-synth) POP ACADEMYというテクノポップのサイトを作り始めたのです。インターネットの黎明期で、自分で何かサイトを作ろうかな、CDやレコードがいっぱいあるから、自分のコレクションとして多いテクノポップかなぁと。完全にインドアです(笑)。
HIDE:
その頃、新しいのも聴いていたんですか?
ガイド:
80年代の再構築というのが主体でしたが、新しいものだと、1997年にファースト・アルバム『Homework』をリリースしたDaft Punkには魅せられました。