原作と映画の違いその1:寄生生物・田宮良子が笑った理由

原作で寄生生物・田宮良子が笑った理由は、探偵・倉森が取り乱して転んだため(人間の滑稽さが可笑しかったため)でした。

一方、映画の田宮は、倉森が赤ちゃんにしていた「いないいないばあ」を真似て、それで赤ちゃんが笑ってくれたことに微笑んでいました

原作の笑いは「嘲笑」であり、それは自分が快楽を得るための行動です。しかし、寄生生物である田宮が人間の赤ちゃんのために「いないいないばあ」をする(笑いかける)ということは、前述の利他行動であり、種すら違う相手のための行動(=利己的遺伝子説には当てはまらない)とも言えます。

映画の田宮は、なぜ「いないいないばあ」をしたでしょうか。
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おそらく田宮自身も、なぜ自分が赤ちゃんに「いないいないばあ」をしたのか、なぜそれで自分も笑顔になったのか、答えを探し続けていたのでしょう。それは、田宮がふと窓に移った自分の笑い顔を見て我に返ったシーンでも、死の直前に「ひとつの疑問が解けるとまたつぎの疑問がわいてくる。始まりを求め、終わりを求め、考えながら、ずっと歩いていた」という言葉を新一に告げたことでもわかります。

それでも、田宮は最期に「またひとつ疑問の答えが出た」と言っています。
その答えとは? それは後ほど書くことにします。


原作と映画の違いその2:寄生生物・後藤が新一に告げた言葉

原作では連続殺人鬼・浦上が、同種(人間)を殺してきたことにより(利己的な遺伝子により)、過度な人口の増幅を抑えてきたと主張していました。

一方映画では、寄生生物の後藤がこのようなことを言っていました。
「人間を殺すのは、お前たち人間のためだ」
なんと、寄生生物のほうが、人間という別の種のもののため(人口の抑制のために)に、人間を殺してきたと言っているのです。

これは、寄生生物の「利他行動」を示すものと言えるかもしれませんが……?
この答えについても後述します。
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原作と映画の違いその3:寄生生物・ミギーが新一に告げた言葉

新一の右腕からいなくなってしまった寄生生物・ミギーは、浦上との最終の決戦のとき、新一の頭(夢)の中に登場します。ここで新一は犬を抱き抱え、「道で出会って知り合いになった生き物が、ふと見ると死んでいた。そんなとき、なんで悲しくなるんだろう」と疑問に思っていました。

原作でのミギーはこの疑問に、「そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ。だがそれこそが人間の最大の取り柄なんだ。心に余裕(ヒマ)がある生物、なんとすばらしい!」と答えています。

一方、映画のミギーは「それこそが人間が持つ、他人を思いやるという愛おしい行動なんだ」と言っており、原作よりもストレートなメッセージに置き換わっています。

個人的には、このミギーの達観したようなセリフは原作のままのほうがよかったなあ……とも思ってしまったのですが、ここに映画『寄生獣 完結編』が描きたかったことが集約されているのではないでしょうか。

それは、寄生生物もまた「他者(人間)のため」の行動をしてきたということ、寄生生物が人間にものすごく近い存在であったということです。

田宮良子は「人間の赤ちゃんに笑いかける」という「思いやる」行動をして、自分は満足感を得て(微笑みを浮かべて)いました。

後藤は、自分の宿主となるはずの人間を殺し続けることに、「人間のためだ」とひとつの答えを見つけていたようでした。

ミギーは自分を犠牲にして新一を助け、「人間の他者を思いやる気持ち」がいかにすばらしいかにも気づきました。

つまり寄生生物は、人間について考え、人間の価値観を理解し、そして人間らしい行動をしていったとも考えられるのです。

次ページでは、田宮良子(寄生生物)が導き出した「答え」についてを読み解きます。