「怪談新聞」で明かした本音
「稲川怪談新聞」に収録されたロングインタビューの中で、稲川淳二は「一回でも外に出した話は、私個人のものではなく、みんなのものだと思っています」と発言。実際に、ある小説家から題材と使わせて欲しいと依頼され、快く了解しています。ただ怖いだけの怪談なら世間にいくらでもありますが、「稲川怪談」は物真似されるほどオリジナリティのある語り口の中に、切なさや寂しさも盛り込まれ、どれも立派な文学といえるのでは。にもかかわらず、話を楽しんでくれる人さえいれば、自作としてのこだわりがないというのは、どういうことなんでしょうか?
あくまでも推測になりますが、話が後世に残ってくれれば、作者、語り手としての稲川淳二は忘れられても構わないと思っているのではないでしょうか。過去にもこだわりを持たず、常に現在、目の前のお客さんに楽しんでもらえればいいんだという信念さえも感じてしまいます。
21世紀のかわら版
「稲川怪談新聞」も言ってみれば、現代のかわら版のようなものでしょう。手にとってもらったお客さんが、ひとときの楽しみを味わう(もちろん、大事に保存してくださっても一向に構いませんが)。偶然か必然かは分かりませんが、稲川淳二の生き方に沿った読み物であるように思います。2014年は10月まで日本中を駆け巡る「稲川淳二の怪談ナイト」ですが、基本的にライブというのは一期一会のものです。CDやDVDでは味わえない臨場感は怖さも増幅させます。稲川一座(といっても、ほとんど稲川さんひとりで喋りっぱなしですが)がお近くに立ち寄った際には、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。そして、お帰りの時には「稲川怪談新聞」をお忘れなく。