中山道の宿場町、綿織物の産地として栄えた
コンパクトな街
東京から約20km、大宮から約10km、埼玉県蕨市は市域5.1平方キロのコンパクトな街、この面積は市としては最小で、逆に人口密度は非常に高く、東京23区よりも高かった時期もあるほどです。過去には合併の話もありましたが、実現することはなく、現在に至っています。
元々は奥東京湾の底にあったこの土地が隆起、人が住み始めたのは平安時代末期。藤で有名な市内の三学院にその時代の仏像が残されています。しかし、この地が賑わい始めるのは江戸時代になってから。徳川幕府は封建制度確立のため、全国の街道整備を行いますが、それによりこの地にも五街道のひとつ、中山道が通り、蕨にも宿駅が置かれることになったのです。
その当時の中山道は面影はわずかながら本陣跡を中心にした中山道本町通り周辺に残されており、毎年11月には中山道武州蕨宿宿場まつりと称して歴史装束に身を固めた行列などが出ます。通り沿いには歴史を感じさせる日本民家が残されており、呉服店、酒屋、薬屋、和菓子屋、煎餅屋など古くからの商売が軒を連ねてもいます。蕨は平坦な土地であるため、宿場町の回りには堀が巡らされており、夜間は堀にかかる橋を跳ねあげて侵入を防いだとか。個人的にはそのあたりの話に妄想をかきたてられますが、残念ながら、跳ね橋だけは残されているものの、堀の遺構はまったく残されていません。
江戸末期には塚越エリアを中心に綿織物業が栄えます。塚越にある塚越稲荷神社には蕨の綿織物業発展に尽くした高橋家五代目当主とその妻が機神様(はたがみさま)として祭られており、西口駅前通りでは今もそれに由来する機まつり(はたまつり)が行われています。しかし、昭和40年頃には機械の登場により衰退。以降の蕨は高度経済成長とともに拡大する東京郊外の住宅地として発展をしてきました。
駅西口側、東口側で
まったく異なる表情の風景が広がる
さて、そうした歴史を感じさせてくれるのは駅西口側。市役所や和楽備神社(わらびじんじゃ)、蕨城址公園などがある側で、駅からは中山道に向かって商店街、市役所通りの2本が伸びています。そのうち、商店街が続く通りはかつてのメインストリート。中仙道沿い同様、米屋、呉服屋、履物屋、人形店、和菓子屋など古い業種が並ぶものの、残念ながら、活気があるとは言いにくい状況。通りに面していながら空き地になっている場所もあるほどです。
とはいえ、2010年にはJRの蕨貨物駅跡地を利用して30階建てのタワーマンションが誕生、建物内には市立文化ホールが入るなど、風景は多少変わってはきています。大型の建物が建つだけが変化ではありませんが、もう少し、人が集まるような仕掛けが欲しいところです。
その反対にビルが並び、人が多いのは東口側。時間によってはタクシーが渋滞することもあるという、コンパクトなロータリーを囲んでスーパー、飲食店、ドラッグストアなどが建ち並んでいます。通りから脇に入ると飲食店、飲み屋さんが多いのは西口側同様。古くからの開けて来た街のため、風俗営業の店などもそれほど密集しているわけではありませんが、そこそこ点在しています。
いずれの側でも駅周辺に多いのがスーパー。大手からディスカウント中心の店などまで数軒が集まっており、この街に住めば生活費は安く住みそう。駅からは少し離れますが、ショッピングモールもあり、西口からはバスが出ています。
もうひとつ、目につくのは駐輪場。このあたりは平坦な場所ですし、駅から離れた場所に住む人も多いため、自転車利用者が多いのです。公共の駐輪場だけでなく、民間の空き店舗を利用した駐輪場など数はあるようですが、それでも足りないのか、放置されている自転車も少なくありません。特に面倒なのは東口側では蕨市と川口市が入り組んでおり、管轄がはっきりしないこともあり、整備、撤去などが追いつかないこともあるのだとか。自治体境界エリアならではの悩みです。
また、歩いていて目につくのは外国人の姿。蕨市は埼玉県の中では外国人居住者が多く、全体の人口のうちの約5%に及んでいます。家賃、物価が安く、住みやすい街ということなのでしょう。
続いて京浜東北線蕨の住宅事情を見ていきましょう。