時が止まった島、長崎・軍艦島へ
今回の行き先は【長崎】
時が止まった島、軍艦島へ
その姿から「軍艦島」と呼ばれた島は、歴史の大きな流れに乗って賑わいを見せたものの、やはり歴史の波に翻弄されて時が止まってしまい、そのまま現代に至っています。
今回は、近代産業遺産の一つとして注目を集めている軍艦島をご紹介します。
海底炭鉱と共に発展したが、閉山で時が止まった軍艦島
軍艦島(Yahoo! 地図情報)は、長崎市内中心部から南西に延びる長崎半島の沖合にある小さな島々の一つ。正式には端島(はしま)と言う名前の島です。端島(軍艦島)は、江戸時代末期までは二回り以上小さな島でした。長崎半島の沖合の海底には良質の石炭の鉱脈が眠っており、江戸時代から明治時代にかけて石炭を掘り出すために伊王島や高島などの島々を中心に海底炭鉱が続々と開発され、端島にも炭鉱が造られました。
その後の近代産業発展に伴い、端島の炭鉱も拡大が必要になり、島の周囲を埋め立てて広げる策が取られます。炭鉱から出た捨石(ボタ)を埋め立てに使って島の拡大が終わると、今度は炭鉱の施設と共に炭鉱で働く人たちが住むための住宅が、当時の最新技術である鉄筋コンクリートで続々と造られていきました。
敷地が狭い中でたくさんの人が住めるようにするため、おのずと建物の高さが高くなり、7階建てや9階建てという高層アパートが出来上がっていきます。学校や病院も設けられて、周囲が1km強の細長い島に一見不釣り合いの高層建築物が並ぶ端島の外観が誕生します。
海から見ると、その外観が軍艦のように見えることから、いつしか「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
端島炭鉱は、24時間操業で続々と石炭を掘り出し、島に住む人たちも続々と増えて賑わいを見せました。しかし、昭和40年代になると石炭から石油にエネルギーの主役がシフトしたことを受けて各地の炭鉱が閉山。端島炭鉱も例外ではなく、1974年(昭和49年)に閉山となり、働き手と共に暮らしていた家族も全員島を出て無人島になりました。
それから30年以上の歳月が流れて、島にある建物は自然の力に逆らうことなく風化が進み、一部が崩壊する建物も続出しています。そんな中、端島炭鉱が明治から昭和への近代産業の発展に大きく貢献したことや当時の建物が残っていることを踏まえて、「軍艦島」として「九州・山口の近代化産業遺産群」に加わり、世界遺産の暫定リストに掲載されるまでに至りました。
無人島になってからは、一般の人の立入りが認められなかった軍艦島ですが、世界遺産の暫定リストへの掲載による観光資源としての活用を考えて、2009年(平成21年)より専門のガイドの同行と見学時間の制約をつけた上で島内の見学ができるようになりました。
華やかな場所ではありませんが、社会見学の一環として一般の人も行けるようになった訳ですね。
それでは、実際に軍艦島に行ってみることにしましょう。次ページに続きます。