テクノポップ/アーティストインタヴュー

POiSON GiRL FRiEND再始動!(4ページ目)

90年代を駆け抜けたPOiSON GiRL FRiEND (PGF)が再始動! フランスの革命記念日である7月14日に豪華なゲスト陣を迎え、新譜『rondoElectro』が発売されます。活動初期の話から、再始動に至った経緯まで、PGFのnOrikOさんに語っていただきました。

四方 宏明

執筆者:四方 宏明

テクノポップガイド

ヲノサトルさん

ガイド:
フロア映えしそうな「Rien À Faire - Nothing More To Do」も1曲目と同じく、書き下ろし曲ですが、これらの曲は、今回新しく書いたもの、それとも以前からしたためていた曲を引き出したのでしょうか? また、この曲を作られたヲノサトルさんとは以前から交流があったのでしょうか?

nOrikO :
全くの、できたてホヤホヤの新作です。ヲノさんとは、今年になるまで全く交流がなかったのですが、ヲノさん主催のイベントに、soyuz projectのライヴのゲストにお呼ばれしたのがきっかけとなり、その時のヲノさんのポップ感が素晴らしくて、すぐさま一曲お願いしてしまいました。ミカドっぽいテクノポップが来るのかなぁ?なんて思ってたら、ドツボのハウス曲で…すぐにフランス語が思い浮かびました。

ブラジルでの幼少期

ガイド:
The Doorsの「Light My Fire」のカヴァーは、ボサノバ調。もちろん、ブラジル=ボサノバではありませんが、nOrikOさんは幼少期にリオ・デ・ジャネイロで過ごされたとか。あまりに幼少時だったので、記憶に残っているのか分からないのですが、ブラジルに過ごしたということは何かその後の人格形成や趣向性に影響したのでしょうか?

nOrikO :
ものすごく影響は残ってると思います。フランス系の幼稚園に通っていたのですが、姉の通っていたアメリカンスクールとは全く違い、とにかく休みが多くてゆるい環境でした。ブラジル人の住み込みのお手伝いさんに可愛がってもらって、サッカーくじをやったり、市場に買物に行ったり、サンバの踊りをおしえてもらったり。

ただし、いい面だけでなく、子どもの頃から貧富の差を目の当りにして生活しなければいけませんでした。親しかったお手伝いさん達が、ある日突然、金目の物を持って、いなくなってしまうのです。裏切られた気持ちがいっぱいでした。それでも、どこまでも青い空と緑、乾いた気候は1年を通して過ごしやすい環境でした。小学生の頃、帰国したのですが、何だか日本がとても狭くて、自由がない国に感じてしまいました。

フランスに4年近く

ガイド:
「Ces Petits Riens」は、セルジュ・ゲンスブールがオリジナル。00年代前半はフランスにも在住されていて、フランスはPOiSON GiRL FRiENDの音楽性にも関わりがある国ですが、nOrikOさんにとって、この国の魅力は? ちなみに僕が知るフランス人にゲンスブールみたいな人は全く居ません(笑)。

nOrikO :
noriko

nOrikO

元々英国カブレと云われていた私が、半年の予定で渡航したフランスに、何故か4年近くも住んでしまいました。空気が合ったのかもしれません。20代の頃は全く面白さがわからなかったほど、フランスはオトナの国だと思います。マドモアゼル(お嬢ちゃん)と呼ばれてるうちはダメなのです。

そして、まず挨拶から始まる。アパートのエレベーターで知らない人と挨拶。お店に入る時、スーパーのレジでお会計をする時も、「こんにちは」「ありがとう」とお客様から言わないといけないのです。そういう意味で、一人暮らしでも、とりあえず日本の生活の様に、気がついたら今日は誰とも一言も話してない、という事がないのです。そして、オトコとオンナの国でもあります(以下略…)。

 

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