1973年のデビュー以来、常に大衆演劇・演劇界の第一線で活躍する姫京之助。

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昭和の喜劇王、藤山寛美に才能を愛され一時は松竹新喜劇でも活動するなど、そのスケールは大衆演劇の枠におさまらない。

役者の"血"

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ガイド:京之助さんは『劇団春』の初代・姫川竜之助さんのご長男になるんですね。

京之助:はい、今は弟が名前を継いでおります。

ガイド:京之助さんの舞台デビューは1973年、15歳の時ということですが、それまではお芝居には関わっておられなかったんですか?

京之助:15歳まで祖母ちゃんに育てられていて、芝居とは縁がなかったんです。

ガイド:どんなきっかけでお芝居の世界に入られたんですか?

京之助:学校を卒業した頃、お芝居で巡業やってる親のところに遊びに行ったんです。そこで自分と同年輩の座員さんと遊んだりしてるうちに楽しく思えてきて、自分も舞台に上がるようになりました。やっぱり"血"なんですかね。

ガイド:子供の頃から劇団でお芝居している役者さんが多いと思うんですが、その中で15歳で入ってとまどいはありませんでしたか?

京之助:そうですね……着物の着かたも草鞋とかの履きかたもわかりませんでしたから。立ってるだけの子分役から始めて、慣れるのに1年はかかりましたね。

ガイド:台詞のあるような役につかれたのはだいたいいつ頃からですか?

京之助:だいたい3ヶ月目くらいじゃないですかね。

ガイド:かなり早めですね。やはりご上達が早かったんでしょうか?

京之助:いやいや、そうじゃなくて親が座長だから役をつけてくれたんですよ。台詞とかは無理やり覚えていったので大変だった記憶があります。

藤山寛美のスカウト 松竹新喜劇へ

ガイド:それ以降、お芝居の世界で徐々に頭角を現して1982年に松竹新喜劇に所属されたということですが、これはどういったいきさつがあったのでしょうか?

京之助:僕はその頃、親の劇団じゃなくて叔父さんの劇団にいたんです。それで福岡県飯塚市の嘉穂劇場で座長大会があった時にたまたま僕も出さしてもらったんですけど、そこに松竹の部長さんと藤山寛美先生のマネージャーさんが観にいらっしゃってたんですね。

ガイド:京之助さんを観に来ていたんでしょうか?

京之助:いや、たまたま「近くでお芝居やってるらしいから観に行こうか」くらいの感じだったらしいんですよ。でもそれから1ヶ月くらいしてから突然、電話がかかってきたんです。忘れもしません、公演先の鹿児島のホテルで深夜1時くらいでした。

電話をとったら「藤山です」って。「どちらの藤山さんですか」ってこたえましたよ(笑)そしたら「藤山寛美です」って言うんだからびっくりしますよね。それで話を聞いたら「うちの部長があなたのことをとても良かったと言っている。松竹に来てくれませんか。」ということだったんです。

ガイド:たしかにそれはびっくりしますね!それで京之助さんはどのように返事されたんでしょうか?

京之助:その時の僕は何の権限もないから「僕の一了見では決めることができません。座長を通していただけますか」と。そしたら「2、3日中に部長とマネージャーを行かせます。」となって結局は劇団ぐるみで面倒を見てくれることになったんです。

ガイド:時代ならではの豪快さですね!しかし、それまでの大衆演劇の興行から急に頭を切り替えるのは大変だったのではないでしょうか?

京之助:たしかに目まぐるしかったですね。
1982年の3月ですかね……「あなたを主役にして股旅もののお芝居を作るからそのつもりでいてください」って連絡があって、4月27日に台本が届いて、5月3日には大阪の中座で公演ですよ。移動中の新幹線とかでも必死で台本覚えようとするけど大変でした(笑)

藤山寛美からの薫陶

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ガイド:しかし京之助さんを迎えるにあたって新作を作ろうというのですから松竹や藤山さんはかなり本気だったんですね。

京之助:そうですね。かなり手厚く迎えていただいた印象です。

ガイド:いきなり飛び込んだ松竹新喜劇の世界ですが、やはり藤山さんからはお芝居の面で学ぶことは多かったのでしょうか?

京之助:数えきれないくらいありますよ。芝居にかける神経の細やかさという点では並の人が及ぶところではありませんでした。

ある時、藤山先生がうどん屋の亭主、僕が魚屋の役でお芝居をした時でした。魚屋なので僕が「いらっしゃい!云々……」という具合に威勢よく台詞をしゃべってたら「そんな大きな声出さなくていいよ。眉間にしわ寄せて芝居しなくていいよ。」とおっしゃるんです。

ガイド:はりきっている演じ手からすると難しい指摘かもしれませんね。

京之助:「歌にサビがあるように芝居にもサビがある。サビに来るまでは力を入れずに我慢しておかないと、肝心なところで盛り上がりを作れなくなる。」ということなんですね。正直言うとその時の僕には藤山先生のおっしゃる意味がよくわからなかった。年を経て今の年代になってようやくわかったような気がしています。

藤山寛美との交流

ガイド:藤山さんとのお付き合いはどのようなものだったでしょうか?舞台人としてはもちろん大の酒豪としても知られた方ですが……

京之助:毎日、夜の公演が終わってから「行くぞ!」って言われてお酒のお供をしましたね。中座で公演している時は、初め大阪で飲んでいてもしょっちゅう京都まで移動するんですよ。当時の佐川急便の会長さんとつながりがあったから。だいたい飲み終わって大阪に戻るのが5時、6時でした。

ガイド:翌朝が大変ですよね。


京之助:眠たかろうが本番の30分前にはお化粧して支度してなくちゃいけませんからね。3時間眠れたらいいくらいです。

また大変だったのが毎朝のご挨拶まわり。藤山先生はもちろん、お弟子さん、衣装屋さん、鬘屋さん、電気部さん……毎日15、6ヶ所まわってご挨拶してました。共演者にも高田次郎さん、中川雅男さんなどいろんな方がいましたから今思えばすごかったですよね。とにかく気をつかって、ひと月で12キロも痩せてしまいました。

ガイド:そりゃあ痩せますよね(笑)お酒もかなりの量を飲まされたのでしょうか?

京之助:いや、僕は昔からお酒がまったくダメだったので、強要されるようなことはありませんでした。でも、場の空気もあるし一口も飲まないわけにはいかない時があるからキツかったですね。

とは言え、藤山先生には本当に可愛がっていただいたので今思えばありがたい経験です。松竹に参加した初日から「姫、俺がどういう人か見ておけ」といつでもそばに置いていただきました。

松竹退団 『劇団花車』創立へ

ガイド:松竹から離れられたのはどういう理由があったのでしょうか?

京之助:松竹に来て1年半ほどたった頃、一緒に来ていた叔父の座長が「そろそろ九州に帰ろう」と言い出したんですね。当時の松竹新喜劇といえば全国どこに行っても大入り満員で、すばらしい環境でしたから後ろ髪引かれる気持ちはあったんですけど……

叔父には逆らえなかったし、親も九州にいたし、そういうものを放り出して自分だけ松竹に残るということは出来なかったんです。

ガイド:藤山さんはどのような反応でしたか?

京之助:「せっかく重箱に入ったものが、なんで今さら弁当箱に戻るんだ!松竹に残りなさい!」ときつくお叱りをうけました。でも「ひとまず帰って今後のことをゆっくり考えさせてください」と振り切ってみんなで九州に帰ってしまったんです。

ガイド:京之助さんは九州に帰られてからほどなくして『劇団花車』を立ち上げておられるのですが、この劇団名は藤山さんが命名されたと聞いております。九州に帰ってからも藤山さんとのやり取りはあったのですね。

京之助:はい。帰ってから半年して思うところがあって自分の劇団を立ち上げることになったんです。藤山先生にも「僕はやはり大衆演劇に戻ります。自分の劇団を作ります。」と報告に行きました。

初めは「ちりめんじゃこでも頭になりたいか!」などと怒っておられましたが、最後には
「花車にはエンジンはない。花車が風に吹かれて回るように劇団はお客さんがいてはじめて回っていける。いつまでもお客さんに回してもらえる華と品のある劇団を作りなさい。」
と劇団に名前を与えてくださいました。そして立ち上げの初日には綺麗な花柄の入った舞台幕もプレゼントしていただきました。

ガイド:せっかく見つけた逸材を失う憤りもあったけど、最後には気持ちよく送り出していただけたわけですね。


京之助:はい、藤山先生は僕にとってこれ以上ない恩師です。

1980年代の大衆演劇一大ブーム期

ガイド:ご自分の劇団を立ち上げるにあたってのご苦労はありましたか?

京之助:お芝居には苦労しました。座員が7、8人いたんだけどほとんどが素人だったので、自分を含め数少ない経験者が必死で立ち回って取りつくろいながら進めていかなくちゃいけないんです。もう何がなんだかわからないくらい大変でしたね。

ガイド:興行の面ではいかがだったでしょうか?

京之助:その点では順調にいきました。松竹にいる時に関西の興行師さん達から目をかけていただいてましたので、劇団を立ち上げて半年目には関西各地で公演させていただくことができました。そして「お客さんよく入ったから次は東京行こう」という具合にいろいろと広がっていったんです。

ガイド:当時は梅沢富美男のシングル『夢芝居』(1982年リリース)のヒットに代表されるように空前の大衆演劇ブームだったと聞いておりますが、実感としてはいかがだったでしょうか?
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京之助:本当にすさまじいブームでした。全国どこに行ってもお客さんが夢中になって押しかけましたよ。東京のある会場では250人が定員のところ、階段や通路にパイプ椅子を並べて昼夜400人ずつお客さまを入れるんです。当時は1ヵ月に22,000人動員した記録があります。

歌手活動 鳥羽一郎とのデュエットシングル『男の流転』

ガイド:お芝居の傍ら、1993年にはシングル『花いちもんめ』をリリースされていますね。京之助さんはそれ以前からも公演で歌を歌われることは多かったんでしょうか?

京之助:当時は歌わなきゃいけない時代でしたね。うちの劇団でも生バンドを入れて歌謡ショーの時間を作っていました。まだまだ『夢芝居』がヒットした印象が強い時期だったから、僕のところにも「京さんのために曲を作ったんです」って具合にレコード会社からいろいろお誘いがあったんです。『花いちもんめ』もそういう流れの中でキングレコードさんで歌わせていただいた曲ですね。

ガイド:2009年にも鳥羽一郎さんとのデュエットシングル『男の流転』をリリースされていますが、これはどういったいきさつがあったんでしょうか?
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京之助:2008年に大阪国立文楽劇場で35周年公演をしたんですが、その時に鳥羽さんにゲストで出ていただいたんです。それからたまにお食事とかご一緒するようになって、ある時「姫さん、一緒に歌おうよ!クラウンの社長にも話してあるから。」って声をかけていただきました。
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ガイド:すごく短い期間の間に仲良くなられたんですね。やはりどこか通じ合う部分があったんでしょうか?

京之助:そうですね。お互い、歌とお芝居で背景は違いますが男の魅力を追及する姿勢であったり、共通する部分があると思うんです。

ガイド:異色のコラボレーションですが反響はいかがでしたか?

京之助:お客さんに披露する機会も何回かあり、とても喜んでいただけたという印象です。

反響も嬉しかったけど、それを上回るくらいに鳥羽さんとCDを出せたということが嬉しかったですよ。歌は好きなんだけど、正味の話、自分でCD出すのはお金さえ使ったらできるじゃないですか。一流の歌手として長年やっておられる鳥羽さんと一緒にできたということは僕にとってはすごく特別なことだったんです。

現代劇シーンでの活動

ガイド:近年は現代劇の方面にも進出されておられますね。
2001年の映画『走れ!イチロー』に出演されたり、2008年に小泉今日子さんと風間杜生さんの舞台『恋する妊婦』にも関わられたとか。


京之助:そうですね。あくまで自分がこれまでやってきた経験を活かせるものだけですが。

『走れ!イチロー』はまさに大衆演劇の座長役ですし(笑)また『恋する妊婦』も大衆演劇をモチーフにした舞台だったので、作家の岩松了さんから声がかかって演出のお手伝いをさせていただきました。
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ガイド:普段の大衆演劇のお芝居とくらべて違いは大きいですか?

京之助:同じ演劇でもそれぞれ違う世界観がありますよね。
頭を切り替えることが刺激になるし、いい勉強ですよ。現代劇に関わることで小林薫さん、小泉今日子さん、片桐はいりさんとかいろんな方と交流するきっかけにもなりましたし、これからも機会があれば挑戦したいですね。

芸能生活40年を過ぎて 姫京之助の芸

ガイド:40年以上、ずっと第一線で活躍してこられた京之助さんですが、ご自身の芸に関して変化を感じることはありますか?

京之助:年代ごとに少しずつ変化がありましたし、50代になって気付いたこともたくさんあります。その年代だからこそできる芝居がしたいんですよ。藤山先生からのアドバイスもそうですが、若い頃に理解できなかったり演じきれなかったことが今なら自然にできるようになっているんです。

ガイド:京之助さんのお芝居や舞踊は時代や流行の変化にも敏感に対応している印象がありますが、ご自身で意識的に研究しておられるのでしょうか?

京之助:大衆演劇も古ければいいってわけじゃないですからね。定番のお芝居の中にも時代に応じた要素を取り入れていきますし、舞踊の音楽も新しくて良いものを積極的に使っています。
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家族との関わり

ガイド:長男の錦之助さんをはじめ、お子さん達がみな立派な役者として活躍されておられますが、父親としてなにか思われることはありますか?
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京之助:子供によってさまざまですけどね。みんなお芝居をやってくれているので、それはなにより嬉しいことですよ。

ガイド:演出の方向性など、親子でぶつかるようなことはありませんか?

京之助:真正面からはぶつかりませんが、やっぱりみんな自分のしたいイメージは個々にあると思いますよ。僕としても少しづつ任せる部分を大きくしてあげたいんです。今でもみんな新鮮なアイデアを出してくれて、うまくいっていますからね。

ガイド:1年中、ほとんどの時間をご家族と過ごされるわけですが、プライベートでの交流はどんなものでしょうか?

京之助:錦之助とは一緒にゴルフに行くことが多いです。まとまった休みがあれば京都に泊まって食事したりするのも定番です。家族といつも一緒にいるとは言っても働きづめの毎日ですから……機会がある時にはできるだけ家族とゆっくり過ごしたいと思うようになりましたね。



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