農地と山林ばかりの土地が
60年で首都圏有数の人気エリアに
現在の東急電鉄の元となる会社は田園調布、洗足などを開発した渋沢栄一率いる田園都市会社。その後、何回かの合併、戦後の分割などを経て現在の東急電鉄となるわけだが、戦後の停滞から抜け出すべく、当時の東急電鉄を率いていた五島慶太によって打ち出されたのが、農地と山林が大半だった多摩田園都市エリアの開発だった。1951年当時、このエリアの人口は1万5000人ほど。主な交通機関は未舗装の厚木大山街道(現在の国道246号)を走るバスだけという状況で、都心から近いにも関わらず、未開発のままだったという。
そして、実際の開発の発端となったのは1953年に五島慶太がこのエリアの土地所有者を招いて説明した「城西南地域開発趣意書」。この時点での計画エリアは溝の口から長津田で、後に中央林間まで延伸される。また、当初は鉄道よりも安価に建設できる高速道路の敷設が検討されていた。実際には日本道路公団(当時)が計画していた第三京浜道路とルートが重なることや、地元からの熱望によって東急田園都市線が建設されることになるわけだが、これが高速道路だったら、現在のように田園都市は人気の街になっていただろうか。歴史はおもしろいものである。
その3年後、その趣意書に基づいた土地利用構想案が発表されるが、この時点での計画された人口は33万1000人。7万人程度の新都市を4カ所建設し、これが連続しないように緑地で囲むというようなものだったという。
ちなみに現在のこのエリアの人口は1980年代半ばに40万人、2013年時点で60万人を超えている。今後、人口増はこれまで以上に緩やかになるとは思われるが、それでも他のエリアのような極端な変化はないだろうと思う。
時代の変化に合わせた計画変更が
人気の秘密?
坂が多い分、日当たり、眺望に恵まれた住宅が多いのがこのエリアの特徴
当初決めたプランに固執、時代に合わせた転換ができないお役所仕事に比べると、ここでは社会の変化が常に意識され、取り込まれている。そのあたりの柔軟さ、現実的なやり方が現在も人気を集め続けている理由のひとつなのかもしれない。
ちなみにこの後も1991年には多摩田園都市二次開発、そして、2013年には横浜市と協働しての次世代郊外まちづくりプロジェクトなどが発表されており、変化は続いている。後者については、将来構想でもあり、最後に紹介したい。
一括代行方式で開発を加速、
4ブロック、58地区で街づくりが
教育熱心な家庭が多く、私立進学率が高いのもこのエリアならでは。都心、横浜への足回りが良いことも大きい
この方式を取ることで、開発が加速したのは当然のこと。多摩田園都市エリアは梶が谷から鷺沼までの第一ブロック、たまプラーザ、あざみ野を中心とする第二ブロック、藤が丘、青葉台を中心とする第三ブロック、以遠中央林間までの第四ブロック、58地区からなるが、1970年代から1980年代には一度に数十カ所で整備が行われるなど、そのスピードには驚かされる。
また、民間一社が手がけることで、行政区分を超えた整備を可能にもしている。特に幹線道路、歩行者専用道路などの敷設が連続的に行えた点は住みやすい街づくりに繋がるポイントとして大きい。
続いて住む場所としての特徴について見ていこう。