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天空の城として大注目!孤高の山城、竹田城跡【兵庫】

日本の歴史を綴る上では欠かすことができない城。長い歳月の間に数多くの城が築城され、そして消えて行きました。そんな中、天守閣も御殿もない城跡としては異例の注目を浴びるのが竹田城跡です。その存在する姿から天空の城、そして日本のマチュピチュとも称されている孤高の山城、竹田城跡をご紹介しましょう。

村田 博之

執筆者:村田 博之

名所・旧跡ガイド

天空の城として大注目! 孤高の山城、竹田城跡

竹田の地図

今回の行き先は【兵庫】
天空の城として大注目!孤高の山城、竹田城跡へ

日本の歴史を綴る上では決して欠かすことができない城。築城当時からの姿が残っていたり、再建された天守閣や御殿の美しい姿が街のランドマークとなり、観光名所となっていることも多いですね。

そんな中で天守閣も御殿もない城跡としては異例の注目を浴びている所があります。その城跡とは兵庫県にある竹田城跡です。

小さな山の上に造られた城跡が存在する姿から、天空の城あるいは日本のマチュピチュとも称されている孤高の山城、竹田城跡をご紹介します。

400年前の山城の遺構が今も残る竹田城跡

竹田城址(1)

戦国時代に廃城となった後の山城の遺構がそのままの形で残る竹田城跡(2013年4月撮影)

竹田城跡Yahoo! 地図情報)は、兵庫県北部の朝来(あさご)市にある城跡です。山陽と山陰を区切る中国山地の東端に位置していて、播但連絡道やJR播但線など姫路から和田山を経由して豊岡方面へ進む陰陽連絡ルートの途中にあります。

竹田城の築城は、遥か昔15世紀までさかのぼります。当時但馬(たじま、現在の兵庫県北部)を治めていて、後に応仁の乱の西軍の総大将も務める山名持豊(宗全)が出石(いずし)城の出城として竹田城を築城したのが最初と言われています。

100年以上の時が過ぎて、戦国時代に織田信長が天下統一を狙って仕掛けた中国征伐の一環で羽柴秀吉が竹田城を攻め落としました。その後、龍野から移ってきた赤松広秀が改修して今の山城の形が誕生したと伝えられています。

しかし、関ヶ原の合戦(1600年)の後にあった鳥取城攻めでの城下焼き討ちの非を徳川家康に責められたことで、赤松広秀は切腹の憂き目に。城主がいなくなってしまった竹田城は程なく江戸幕府より廃城を言い渡されてしまいました。
竹田城址(2)

県道136号線から望む竹田城跡。山の上にあることが良くわかる(2013年4月撮影)

それから340年余りの時を経て、竹田城跡を取り巻く環境に変化が訪れました。1943年(昭和18年)には国史跡の指定に、そして2006年(平成18年)には日本100名城にも選ばれています。

廃城から長い年月が経過したこともあり、竹田城跡には天守閣や御殿などの建物は一切残っておらず、石垣だけしかありません。

そんな竹田城跡が注目を浴びるきっかけとなったのは、築城当時の石垣などがそのまま残る城の現況とそのロケーションにありました。

竹田城跡は、日本海に注ぐ円山川(まるやまがわ)を見下ろす標高353.7mの独立した山の上に築城されています。円山川をはさんだ対岸の山側から竹田城跡を見ると、虎が伏したように見えることから「虎臥城(とらふすじょう)」とも呼ばれます。

この一帯は秋から冬の早朝にかけて低い所に雲海が発生し、竹田城跡が雲海の上にぽっかり浮かぶ幻想的な風景が見られることがあります。この素晴らしい風景を体験した人たちから「天空の城」とかペルーにあるインカ帝国遺跡マチュピチュになぞらえて「日本のマチュピチュ」とも呼ばれるようになり、一躍人気が集まる観光スポットになりました。

それでは、素晴らしい風景を目指して、竹田城跡の登城に挑みましょう。次ページに続きます。
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