組織を固め、日本テレビからは「プロレスがどんなものか調査してから決めたい」という答えを引き出した力道山は53年11月に再び渡米、同年12月6日にハワイ・ホノルルで世界ヘビー級王者ルー・テーズに挑戦した試合は日本でも大きく報じられ、プロレスという未知の格闘技が話題になりました。翌54年2月19日~21日の3日連続で蔵前国技館において開催された『プロレス国際試合』は日本テレビだけでなく、直前になってNHKからも「ウチにも放送させてほしい」という申し入れがあり、日本テレビの正力社長が「テレビ普及のためなら」と快諾してNHKと日本テレビの2局放送になったのです。プロレスがテレビ普及の原動力になったのは言うまでもありません。ちなみにプロレスの史上最高視聴率は63年5月24日、東京体育館で行われた力道山vsザ・デストロイヤーで関東地区ビデオ・リサーチ調べで64%。これは日本テレビの史上最高視聴率として今も破られていない数字です。

その遺伝子は馬場と猪木に受け継がれた

力道山の魅力は空手チョップを必殺技にした気迫溢れるファイトでしたが、対戦相手の人選については、プロデューサーとしてのセンスが光りました。54年2月の『プロレス国際試合』では大柄なアメリカ兵をイメージさせるベンとマイクのシャープ兄弟を招聘し、空手チョップでなぎ倒すことで日本国民の溜飲を下げさせました。しかも他の格闘技にはないタッグマッチという試合形式を持ち込むことで「今までにはない新しい格闘技」というイメージを付けることに成功したのです。

その後、力道山は様々な手法で日本のプロレスを発展させていきました。54年12月22日には木村政彦を下して日本ヘビー級王者に君臨して日本のプロレス界を整備。55年には流血戦があることを実際の試合で見せ、57年10月7日には世界ヘビー級王者テーズを招き、後楽園球場に3万人の大観衆を集めて世界戦を開催。58年8月27日にロサンゼルスでテーズを撃破してインターナショナル・ヘビー級王座を奪取して国際的レスラーであることをアピールしました。59年にはテレビで『月光仮面』が流行すると覆面レスラーのミスター・アトミックを呼び、世界各国から代表選手を集めたプロレス・オリンピックとも言える『ワールド大リーグ戦』を開催。62年4月にはショーマン派レスラーの“銀髪鬼”フレッド・ブラッシーを呼びましたが、ブラッシーの噛みつき攻撃は刺激が強過ぎ、テレビを観ていたお年寄りがショック死する事故が起こって社会問題になってしまいました。

力道山は63年12月8日に東京・赤坂のナイトクラブで暴漢に腹部を刺され、同月15日に39歳の若さで急逝しましたが、その遺伝子はジャイアント馬場とアントニオ猪木に受け継がれました。力道山はプロレスだけでなくボクシングジム、マンション、ゴルフ場、ヨットハーバー…と実業家としても手を広げていきましたが、プロレスにとどまらない事業欲、そしてプロレスにおいては「闘い」という部分を継承したのが猪木です。一方の馬場は「スポーツ・エンターテインメントとしてのプロレス」を継承しました。その2人が張り合ったことでプロレス業界が繁栄したことを考えれば、やはり力道山なくして日本のプロレスはなかったと言ってもいいでしょう。

年末になれば、没50年ということで様々なメディアで力道山が取り上げられると思います。ぜひ、チェックしてみてください。



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