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北品川、新馬場、品川隣接の歴史ある街

旧東海道の宿場町、品川宿は江戸時代と変わらぬ道幅の東海道を挟んで商店街が続き、寺社など歴史ある風物が残るエリア。品川隣接で現代的な利便性も兼ね備え、近年、開発が進む街をご紹介しましょう。

中川 寛子

執筆者:中川 寛子

住みやすい街選び(首都圏)ガイド

東海道品川宿の入り口
北品川、新馬場

藤森海苔店の壁画

東海道を東西に横切る南馬場通り沿いにある海苔店の壁に描かれた品川宿の浮世絵(クリックで拡大)

江戸時代末の品川宿の範囲は北は八ツ山口から南は青物横丁と鮫洲の境(現在の補助26号線)までの約2.4キロと言われています。当時は八ツ山口から南に向かって歩行新宿(かちしんしゅく)、北品川宿(本宿)、目黒川を渡って南品川宿と呼んでいたそうですが、現在はざっくり北品川宿(歩行新宿から北品川宿)、目黒川から南の青物横丁までを南品川宿と呼び、合わせて品川宿と言うのだとか。現在も八ツ山口から青物横丁を経て、鮫洲、立会川、鈴ヶ森口までの約3.8キロは江戸時代と同じ道幅の東海道が残されており、これだけの距離が現存し、かつ現在も日常の生活道路として使われているのは極めて珍しいケース。街の中に歴史が生きている街というわけです。

 

北馬場の解説

かつての北馬場町の解説。品川宿は100頭もの馬を用意しなくてはいけない、大きな宿場だったことが分かる(クリックで拡大)

ちなみに歩行新宿(かちしんしゅく)とは八ツ山口から京急線の北品川~新馬場の間くらいにある法善寺辺りまでを指し、新しい宿という意味でしんしゅくと読みます。昔の宿場町は街道を通る人のために馬と人足(伝馬と歩行人足)を用意する必要があったのですが、この宿場ではそのうちの歩行人足(かちにんそく)のみを負担する新しい宿場として作られたため、その他の宿場と区別するために、このような名称を付けられたのです。

 

品川富士からの風景

品川神社にある富士塚、品川富士から東海道方向を望む。写真中央を奥に向かう道は東海道から分岐した品川神社への参道で、その奥に東海道が京浜急行線と並行に走っている(クリックで拡大)

今回はそのうち、京浜急行線の北品川駅、新馬場駅を最寄りとするエリアを取り上げます。新幹線も利用できる一大ターミナルである品川から至近な場所のため、最近は品川の開発の余波が及び始めており、京浜急行線の西側を並走する第一京浜(国道15号)や東側の八ツ山通りや海岸通り沿い、場所によってはもっと東海道に近いエリアでもマンションの建設なども進行、街は変わり始めています。一方で東海道を利用した街作りも進行、活気が甦りつつあり、こちらの変化も見逃せません。

 

幅11m弱の通り沿いに商店街、
歴史を感じさせる店舗も

京急線

八ツ山橋辺りを走る京浜急行線。京浜急行は都営浅草線を経由して京成線と接続しており、羽田、成田両方につながり、空港を利用する人には非常に便利(クリックで拡大)

では、第一京浜から東海道が分かれる地点、八ツ山口から東海道やその周辺の様子を見て行きましょう。第一京浜は品川駅の南側でいくつかに分岐しますが、その分岐点となっているのが八ツ山橋、新八ツ山橋で、このうち八ツ山橋が東海道の入り口。怪獣映画ファンにはゴジラが日本に上陸した地点として知られている場所で、ここを入るとすぐに東海道が始まります。

 

北品川の商店街

東海道の道幅は基本このくらい。ただし、場所によっては半分くらいに細くなっており、必ずしもすべて同じだったわけではないらしい(クリックで拡大)

江戸時代の大動脈として東海道を認識している人にとって、現実の東海道は意外に狭いという印象を受けるのではないかと思います。元和2年(1616)、徳川家康が没した後、家康の遺訓といわれる『家康百箇条』が示されていますが、この中に江戸時代の道路政策や道路の種類、等級に関する記述があり、それによると、大海道(当時の記載のまま)は6間、現在でいうと約10.8mとされています。東海道は言うまでもなく、大海道ですから、道幅は今も昔も変わらず、この幅ということが分かります。当時の旅は徒歩、あるいは駕籠や馬での移動でしたから、この程度の道幅でも十分だったのです。

 

かつての海岸線

かつて海岸線があったと言われるあたり。確かに左手には古い石垣が残されている部分もあり、そもそも高さがかなり違う(クリックで拡大)

そして、当時の東海道は海のすぐ西側を走っていました。そのため、現在も東海道から東へ向かう横丁は必ず下り坂となっており、東海道から東はかつて海だったことを教えてくれます。もちろん、現在はそこから何キロにも渡って埋め立てられ、住宅地が広がっているわけですが、東海道から少し東へ下った辺りにはかつての海岸線の後と言われる石垣が残されていますし、台場小学校にはかつて台場として作られた敷地の形状、灯台のモニュメントなどが残されています。

 

台場小学校

東品川一丁目にある台場小学校。周辺は細い路地が入り組むエリアで、なぜか猫も多い(クリックで拡大)

ちなみに現在の私たちは台場と聞くと、港区台場を思うかもしれませんが、台場とはそもそも、徳川幕府が黒船襲来に備えて作った砲台。大半は海上に築造されていますが、ひとつだけ海岸沿いに作られたものがあり、それが台場小学校の敷地の外周となって残されているのです。地図で見ると不思議な形状が分かりますが、それは歴史が作った形なのです。

 

三浦や

黒門横町にある天ぷらの三浦屋。汚くてもおいしい店として人気があり、並ぶこともしばしば。もちろん安い(クリックで拡大)

商店街を歩いてみると、品川、街道らしい商店もいくつか残されています。たとえば、魚屋、海苔屋、履物屋、船宿などなど。品川は江戸時代、幕府に魚介を献上していた御菜八ヶ浦のひとつで、様々な魚種が上がる地だったためで、魚屋さんだけでなく、江戸前天ぷらの店なども残されており、しかも手頃。品川、高輪から少し離れただけで飲食店の価格が一気に下がるのはうれしいところです。ちなみに、江戸前天ぷらだけではなく、寿司、品川に市場がある関係からもつ焼き、焼き肉店なども多く、こちらも手頃とか。外食の多い人にはうれしいポイントかもしれません。

 

履物屋さん

いかにも古い作りの履物屋さん。入口にはサンダルの類が雑然と積まれているが、奥に入ると昔ながらに草履の鼻緒をすげてくれたりする(クリックで拡大)

海苔もかつてのこの地の名産。昭和37年頃までは栽培していたそうで、今もこの辺りには海苔屋さんが少なからず残されています。また、昭和30年代に映画館で音を立てずに食べられることから大ヒットした品川巻もこの地が発祥です。また、履物屋さんは東海道に限らず、街道沿いには多い業種のひとつ。歩いて旅する時代ですから、履物は重要だったわけです。船宿は海の近くならではの商売。この辺りには釣りだけでなく、お座敷天ぷらを楽しむ屋形舟も多く、夏の花火の時期には海上から花火を見ようとする人に人気です。

 

閻魔いなり

長徳寺門前の名物は閻魔いなり。ごまと一味を入れたピリ辛のおいなりさんだ(クリックで拡大)

それ以外にも寺社門前の名物だったであろう稲荷寿司や和菓子屋、染め物屋、金物屋さん、銭湯など昔ながらの業種が多く並ぶ商店街ですが、一方で古い建物の雰囲気を生かした飲食店や外国人のバックパッカーなどを対象にしたゲストハウスなども出てきており、新しい息吹も感じることができます。大型スーパーなどはありませんが、生活に必要な商店はほぼ揃っているので、毎日の生活には不便は感じないはずです。

 

お休み処

目黒川に近いところにある品川宿交流館本宿お休み処。これ以外にもお休み処、お土産処などが用意されており、トイレも点在。安心して歩ける(クリックで拡大)

また、観光に力を入れてもおり、ガイドマップなどが置かれたお休み処が点在、週末にはカメラ片手に歩く人の姿を見かけることも多くなりました。あちこちにその地の由来を書いた掲示板などもあり、ぶらぶら散歩をするにも楽しい場所です。

 

路地

北馬場通りから入ったところにある煉瓦塀の続く路地。細い裏道ほど昔の風情が残されている(クリックで拡大)

寺社や風情ある路地も忘れてはいけません。北品川~新馬場辺りで有名どころと言えば、第一京浜沿いにあり、品川富士で知られる富士塚のある品川神社や、目黒通り沿いにある荏原神社、品川のお閻魔様と親しまれる長徳寺、縁日が開かれる養願寺などなど。煉瓦の塀の続く路地や石畳の道を抜けると小さなお社があるなど、発見も多い街です。

 

では、続いて京浜急行北品川、新馬場駅周辺の住宅事情を見て行きましょう。
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