「もう『あんな人は出てこない』と多くの人が口にしたが、それは『もう
あんな時代は二度とこない』という言葉と同義である。」
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『安井かずみがいた時代』島崎今日子著

こないだ読み終えた『安井かずみがいた時代』という本のあとがきに書かれていた言葉だ。

僕がはじめて安井かずみという名前にふれたのは沢田研二さんの曲を聴きはじめた頃。1995年か1996年のことだから、その時すでに彼女は亡くなっていたわけだが。ともかくもいろいろ掘り下げていくうちに、タイガース時代の『シー・シー・シー』、ソロ初期の『危険なふたり』、『追憶』など大ヒット曲からアルバム曲まで幅広く作詞を担当し、1970年代の沢田さんが持つ甘美でフランス臭いイメージを醸成した仕掛け人だったということを知った。

もちろん彼女の功績は沢田さんに関するものばかりではない。ご存知でない方のためにまず少し紹介をしておこう。

1961年デビュー。はじめみナみかずみ名義で海外ポップスの訳詞をてがけていたが、1960年代中ごろから安井かずみ名義で作詞家としての仕事に比重が移っていく。1970年代前半までに『ヘイ・ポーラ』(田辺靖雄・梓みちよ)、『レモンのキッス』(ザ・ピーナッツ)、『ドナドナ』(岸洋子)、『わたしの城下町』(小柳ルミ子)、前述の『危険なふたり』(沢田研二)、『激しい恋』(西城秀樹)、『よろしく哀愁』(郷ひろみ)など大ヒットを量産し、一時代を築いた。1977年、加藤和彦との結婚後は寡作になるが、加藤との共作でなお『不思議なピーチパイ』(竹内まりや)、『愛・おぼえていますか』(飯島真理)などのヒットを残している。1994年、55歳の若さで肺がんのため没。

1960年代、1970年代には阿久悠、山上路夫、なかにし礼、千家和也など大作詞家がきら星のごとく居並んでいたが、安井かずみだけはどこか雰囲気が違う。女性であったということも大きな違いだが、他のビッグネームのように"先生"然としていない破天荒なお洒落さがある。彼女の書く詞はけっして文学的に凄みを感じるようなタイプではない。一見すると日本語としては不自然だったり、つたない部分も目立つのだが、音楽にのるとハッとするようなみずみずしいセンスを秘めているのだ。封建的な価値観が薄れて男女が自由に恋愛し、自立して生きていくようになった時代の象徴とでも言おうか。僕自身、歌詞や曲を書く人間として、安井かずみこそシンガーソングライターのような感覚で歌詞を書きはじめた最初期の作詞家ではないだろうかと感じる。

海外ポップスの訳詞家としてデビュー

彼女の初仕事はみナみかずみ名義で手がけたエルヴィス・プレスリーの『G.I.ブルース』の訳詞だった。当時はロカビリーブームの余波で、海外のポップスが続々と日本に輸入されており、それをいかにセンス良く日本語版にできるかに若い歌手の浮沈がかかっていた。そこで白羽の矢がたったのがフェリス女学院出身のハイソサエティで流行のカルチャーに強く、語学も堪能だった彼女。野暮ったく、リズムに難のある「いかにも訳詩でございます」というような作品があふれていた当時にあって、彼女の手がけたものは極めて都会的で洗練されている。そもそもその曲のためにあったかのような詞。

描写も新鮮だ。今では当たり前のことだが、女性が能動的に恋をする。『レモンのキッス』などわかりやすい例だろう。男に支配され、待ったり耐えたりすることはない。恋愛することに後ろめたさを感じたり、すねてしまうことももちろんない。現代のポップス歌詞の源流とも言える主張と、主張するがゆえの活き活きとしたときめきがそこにあるのだ。

キャンティ、川口アパートメント、海外旅行

その後、作詞にもフィールドを広げ、一躍時代の寵児となった彼女は、同時に派手な私生活と交友関係でも注目を浴びた。皇族や政財界の重鎮、三島由紀夫や石原裕次郎など時代のスター、果てはイブ・サンローランやフランク・シナトラまでを顧客に持つイタリアン・レストラン『キャンティ』をサロンにし、親友の加賀まりこ、コシノジュンコらとスポーツカーを走らせ、アバンギャルドな衣装をまとってディスコで踊り、ボーイハント。高級マンション『川口アパートメント』の自宅では最先端の業界人を集めたパーティーが頻繁に開催され、酔えば男も女も裸になってプールで泳ぎだすという乱痴気騒ぎ。思い立ったら仕事も恋愛も放り出してヨーロッパやアメリカに旅立つ奔放さ。

"ロックンロール"。まるで日本人離れした自由で豪奢な日々だが、結果的にそれは無駄遣いにはならなかった。彼女が交際した猛烈な上昇気流たちは、彼女自身をさらなる高みへと押し上げたし、中でもかまやつひろし、加瀬邦彦、吉田拓郎、沢田研二、川口真、村井邦彦らは直接の仕事仲間になっていった。

1970年代前半の全盛期

彼女が1971年から1974年に手がけた『わたしの城下町』、『ちいさな恋』(天地真理)、『赤い風船』(浅田美代子)、『草原の輝き』(アグネス・チャン)、『危険なふたり』、『よろしく哀愁』、『激しい恋』……ざっと挙げてみただけだが、これらはすべてオリコン週間ランキングの1位か2位を獲得し、年間ランキングでも20位以内におさまっている。この頃が彼女がいちばん社会的に影響力を発揮していた時期だし、僕の主観でも、もっとも才能が花開いていた時期だと思う。

一生のうち、約4000の作品を残したといわれる職業作詞家の彼女。オファーや歌手のイメージにあわせてそれなりに幅広い作風を使いわけることが要求された。産みの苦しみ、プレッシャーも相当のものだったという。しかし、そんな中でも根本の「自分の感じたことを書く」という姿勢を忘れることはなかった。特に『危険なふたり』の一節
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危険なふたり

「年上の女(ひと) 美しすぎる」

というくだりには、安直ながら沢田研二への熱烈な想いがこもっていたのではないかと作曲者の加瀬邦彦をはじめ、多数の証言がある。本人が亡くなっている以上、真相は闇の中ではあるが、そんな想い、欲求を率直に歌詞にできるところが彼女の人間的な魅力であったとも言えるだろう。極めて個人的な欲求を満たした上で、「女はいくつになっても"大人のふり"をする必要なんてない。男の前ではガールでいいのだ」という新しい価値観を世間に提示した力量はさすがだなと感じてしまう。

加藤和彦との結婚

そんな全盛期の矢先だった1977年、彼女は加藤和彦と結婚する。加藤はフォーク・クルセダーズ、サディスティック・ミカ・バンドと華々しい経歴を歩んできた音楽界のホープ。8歳年下だった。

結婚前の2、3年、彼女は、自身の作詞スタイルの後継者とも言えるようなシンガーソングライター達によって、少しずつではあるがその地位を脅かされつつあった。それが、シンガーソングライターの代表格のような加藤と結婚したのだから巡り会わせというのは不思議なものだ。

ともかくも加藤と結婚した彼女は周囲がびっくりするくらい生活を一変させる。これまでの遊びに傾いた交友関係を遠ざけ、服装もコンサバティブなものを好むようになった。贅沢でスタイリッシュという部分は変わらなかったが、とにかく何をするにも夫婦一緒。仕事すら、ほとんど加藤の専属作詞家のような仕事しか受けなくなってしまい、第一線から退いていくことになる。

それでもまだ1980年代前半に『不思議なピーチパイ』、『愛・おぼえていますか』、『だいじょうぶマイフレンド』(広田玲央名)などのヒット曲、話題曲を残しているのだからたいしたものだが、1980年代後半からはいよいよ"理想の夫婦像"をアピールするエッセイストとしての仕事が主になり、たまに作詞の筆をとっても、なんだか時代と無関係なひとりよがりな表現が目立つようになってしまう。

安井かずみがいた時代の終わり

長年にわたり過酷な環境で自分を追い込みながら仕事をしてきた彼女にとって、加藤との結婚生活は最後の逃げ場所だったのかもしれない。時代は確実に変わっていた。かつて彼女が提示した斬新な世界観はすでにありふれたものになってしまい、だからと言ってそれに代わる訴求力のあるテーマを見つけることもかなわなかった。

僕はそれが才能の限界だとは思わない。彼女は自分の意思で走ることをやめたのだし、作詞よりも大切なものを、本当に大切にするための生活を望んだのだから。

そんなことよりも惜しむらくは1994年に、たった55歳で彼女が亡くなってしまったこと。彼女が生きてさえいれば、加藤の死もなかっただろうし。居なくなってしまっては、華やかな時代の残り香さえも消えてしまう。つくづく"歌謡曲という時代"は遠くなってしまっているのだ。


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