「これからは英語もできなきゃ」の脅迫
邦銀や製造業などの純国産企業への失望感が蔓延し、「IT」や「外資」が一躍脚光を浴び始めたのは、あれはバブル崩壊ののち、いよいよ就職氷河期がやってきたころのことだ。もう日本なんてダメだ、時代遅れだ、これからは国際基準(グローバルスタンダード)だ! と、「国際」「グローバル」「戦略」と帯に書かれたような本がやたらと売れた。俄然TOEICが認知され、学生や社会人がこぞって受験して、さまざまな(正統派からあやしげなものまで)資格で「武装」し始めたのも、そのころである。
子どもの世界にも変化が訪れた。「国際人」があがめられ、英語教育が注目され、「これからは英語もできなくちゃ(あなたのお子さんは落ちこぼれますよ)」という脅迫じみたコピーで、子ども向けの英語塾やサービスが乱立した。
以来、約20年。日本は何がどれくらい変わっただろうか。日本人の英語力は目覚ましく向上して、「国際人」がぞくぞく生み出されて、会話の半分くらいは英語になって、そろそろ顔の彫りも深くなってきただろうか。
国際人って誰、グローバルってどこのこと
などという皮肉はさておき、近年の実感として、いわゆる(自称含む)帰国子女が増えたなぁ、留学経験者や海外在住経験者も累積的に増えたなぁ、とは思うのである。その「質」や「実態」にはまだまだ専門家たちは二言も三言も言いたいことがあろう。でも、「海外経験者はカッコいい、まるドメ(まるっきりドメスティック=国内)はイマイチ」くらいの、多少軽薄であろうとも日本の国外を意識する傾向はできたと思うのだ。しかし、まるドメ派なら「うわぁ、さぞかし国際人なんだろうなぁ」と思ってしまう海外経験者は、在住経験が長くて広く深く活躍するディープな人ほど「国際人」「グローバル」という言葉を忌み嫌う。「国際人」ってどういう人のこと、「グローバル」って世界のどこのこと指してんの、と鼻でせせら笑うような論調に賛同者が湧くのである。
つまり、本当に「国際的」に活躍していたら自分を国際人などと安易に呼ばないし、グローバルなどという何を指しているのかさえ曖昧な言葉は使わない。海外を知れば知るほど自分たちは日本人であることを深く自覚せざるを得ず、そして世界は一口で「世界」などと呼べないほどに複雑で分断されたものの集合体であると身に沁みるからだ。