古くから交易の場として栄えた街、
新旧が交わる独特の雰囲気が
武蔵野台地上に広がる所沢市は古く約2万年前から人が住んでいたという土地で、市内には旧石器時代以降の遺跡や貝塚などが点在しています。由来ははっきりしていないものの、地名も古く、室町時代に記された紀行文の中にある歌に「野老沢(ところさわ)」なる表記があり、この野老(ところ)がヤマイモ科の植物であることから、こうした芋の取れる沢ということではないかとの説があります。所沢の銀座商店街には設置されている所沢市中心市街地活性化拠点施設も「野老沢町造商店」(愛称はまちぞう)と名付けられており、この地では意味のある地名です。
その後、鎌倉時代には府中方面に通じていた鎌倉街道上道と間道であった堀兼道、羽根倉道の合流点として、江戸時代には幕府直轄領として、近世に入っては江戸、秩父、府中、川越などへ向かう街道の中継地、物資の集積地として栄えてきました。特に明治年間には所沢飛白、湖月縮などといった綿織物が名産となり、織物の街所沢として発展、今でもその歴史が伺える蔵造りの建物などが古くからのメインストリートである銀座通りやそれと平行して流れる東川(あずまがわ)沿いに残されています。
蔵造りの建物が多かった理由としてはもうひとつ、ここが台地上の乏水地域であったことも挙げられます。地下の水脈が深い場所にあるため、井戸水の確保が大変で、火災が起きると消しようがなく、当時は「所沢の火事は土で消せ」と言われたほどだったとか。大火も何度も起きています。そのため、商家では火事の被害を軽減するため蔵造りの建物を作ったのです。
その後、所沢の発展に大きく寄与したのが陸軍による日本初の飛行機場(のちの陸軍航空整備学校)の設置です。現在市内に所沢航空記念公園があり、航空発祥の地と称しているのはこうしたいわれから。所沢駅西口から伸びる商店街プロペ通りはプロペラにちなんだものですし、その先に続くファルマン通りはここで初飛行した飛行機がアンリ・ファルマン式複葉機だったことによるものです。
人口が増加し始めたのは昭和20年代、30年代。1955年(昭和30年)に4万2000人だった市の人口は2000年(平成12年)には33万人を越えています。市内のあちこちに公団、その他の大規模な住宅開発が行われてきたためです。所沢の中心部での大きな変化はその後の1959年以降。小金井街道沿いにタワーマンションが登場、以降、2~3年おきに新しいタワーが建ち、現在では25階建て以上のタワーが6棟並び、間にはマンション、一部に古い商店という新旧が混在する風景に。迫力があります
さらに2012年(平成24年)には駅が新しくなり、東西をつなぐ橋上駅舎に。東西を結ぶ自由通路が設けられたほか、駅構内に商業施設、売店、広場なども作られ、ショッピングも楽しめるスペースに。改札口内側にも飲食店ゾーンが作られています。
では、続いて所沢駅の東西の様子を見ていきましょう。