「シェア」という欲
半分こ
例えば、街の時間制の駐車場には「シェアカー」が常駐し始めています。駅前無断駐輪問題など騒がれる一方、街ぐるみでの「シェアサイクル・サービス」に乗り出す地域も出てきました。
都心部で廃校舎を利用した「シェアオフィス」はそう珍しい存在ではなくなっていますし、個人のハンドメイド人気に後押しされた「シェアショップ」とも言うべきミニマムな店舗空間は、現実でも、また電脳空間にも広がりを見せています。
「ルームシェア」「シェアハウス」といった住空間シェアは、ここ数年、とみに急激な対応物件数の伸びを見せています。「シェア」は「風変わりな特別の人」が選ぶ住まい方ではなく、当たり前に新居の検討のさい俎上に上がる存在になり始めているということでしょう。
また着物などでは以前からあったものですが、最近ではそれほどまで高価ではない「パーティードレス」などのレンタルサービスも活発になってきました。購入しようと思えばできないこともないけれど、敢えて「買わない(専有しない)」ことを選ぶ顧客ニーズが厳然としてあることのあらわれでしょう。
「ドレス」の他のシェアの客体もそうですが、限られた機会にしか使用しないモノ・自分の身を過剰に限定せしめるモノに対して、人々はだんだんと、もう特別に「専有したい」という欲求を持たなくなってきている、むしろ「専有したくない」という欲求を持ち出したということのように思えます。
自由と「シェア」
私らしい色合い、私らしい美意識
「シェアハウス」の建物外観は、自分が建てるとしたら絶対に選ばなかった仕上げ方法でなされた色合いかもしれませんし、「シェアカー」の車種は大好きなあのクルマには似ても似つかないものかもしれません。「シェアサイクル」用の自転車は、使いたいとも思わなかった電動自転車かも知れません。「選べるとしたら、自分では絶対に選ばなかった」何かを「シェア」では宛てがわれるかも知れない。「専有しない」ということには、そういう側面がなきにしもあらずです。
それは言い換えれば、「自由」を失った状態と言えないことも無いでしょう。選べないのですから。でも、もう一段階遡れば、明らかなことは「選べないこと」をそれ以前に、前もって、「選んでいる」。「シェア」を「選ぶ」ということの結果でしかないとも言えるわけです。
「シェア」という動き
分け合いましょう
コダワリの、私らしい、私にしか持てない、特別の、誂えた、珍しい、他に持っている人のいない、自慢の「モノ」。それが悪いものであったり、そうすることが悪いということではないのですが、何かもう「お腹いっぱい」感がある……胃にもたれている。そもそも「モノを持つ」ということにはお金がかかるということの他に、「持ち続ける」パワーが要ります。良くも悪くも「維持費(金・時間・手間)」がかかるのです。
そういったことに人生の時間やパワーを費やさないことをこそ、敢えて「選ぶ」。持たず、分かち合い、共有する。「私が!私が!」のエゴから、「皆へ」の方向に切り替え、エコロジーとエコノミーを実現する。抱え込み動かない(動かさない)ことから、手放し、分け合うというアクションを起こす。動く。
暮らしから、住まい方から、こういった「シェア」の時流はどんどんその流れの速さを増して行くのではないか? 2013年は、その幕開けの年となるのではないか? 私は、そんなふうに思っているのです。