「実社会は共学だから、別学は不自然」の嘘
おおた氏の『女子校という選択』で深く共感したのは、男女別学否定論者が口にする「男女別学は不平等。男女共学は平等で、社会の自然なあり方」に異論を唱えるくだりだ。「世間は『お嬢様学校』じゃないんだよ」と、女子校育ちを揶揄する人達がいる。確かに、世の中は右から左、上から下、斜め上にも下にも、老若男女いろいろだ。だが、それが確かに平等な姿だと誰が言えようか。現実に、女子校出身者たちが共学の大学生活で、就職活動や会社生活や結婚生活で、「うわぁ、世の中ってこんなに理不尽で不合理で不平等が厚顔に大手を振って歩くものなのか」と「不自由さ」に窒息しそうになりながら空気を求めて涙を流すことの説明を誰がしてくれるのか。これだけの教育国で学力の高い女子がどんどん輩出され、実際大学レベルなら女子の方が学力が高いという結果が出ているにも関わらず、相も変わらず英国やスイスに「日本社会の女性人材活用度の低さが日本の先進国性を低めている」と斬り捨てられるのはなぜか。
日本は、アジアの国々を語る時に民度の高い低いを論じてあてこするのが好きなようだ。国家の民度を語るのなら、日本はもっとジェンダーへの取り組みを模索した方がいい。個人として能力があること、自己肯定感を持てること、社会に貢献し生産的であること、それが「女らしくない」「男らしくない」というステレオタイプによって潰されない社会なら、「民度」を語る資格もあるかもしれない。
一つだけ、子育てをしている人ならできることがありそうだ。少なくとも、自分の子どもは「女のくせに」「男のくせに」と口にするような人間にならぬように、親も「女のくせに」「男のくせに」とは口が裂けても教えない。現実の不平等に思考停止して、それが当たり前だ受け入れろ諦めろ、それが社会だ、などと教えない。そんな意味で、男女別学は「園」(その)という呼称がやはり似合う、実は子どもの自然でのびのびとした成長を可能にしている、一つの選択肢なのだ。