才能を潰さない孵化装置(インキュベーター)
女子校出身者は、冒頭の私のように、自分たちのオッサンぶりを自虐的に語る。でも「コンプレックス」だと語りながら、実はそういう自分への肯定感を、しっかり持っている。女子の「オッサン」ぽさ、男子の「おばさん」ぽさとは、要は人格の中性的な部分が表出したものなのだ。どんな「おんなのこ」だって、隅から隅まで100%みっちり女性性だけで占められているわけがなくて、例えば「少女」性を武器にするアイドルに限って実はプロ意識が高い結構な男前だったりする。草食だとか言われている男子の生態なんて、私から見ればどこが「草食」でどこがいけないのかまったく分からない、普通の話の分かる人間にしか見えない。というより、まるで絵に描いたような「ザ・男らしさ」や「ザ・女らしさ」が世のどこに実在するのか、そんなアンバランスな人格はむしろ冗談だとしか思えない。一方で、母親として女子も男子も育てつつ、世の子どもたちを見てきて思うのだが、男子と女子は「違う」。何が違うか、それはアプローチが違うのだ。社会常識でもマナーでも数学の公式でも「ちゃんと親に愛されていること」でもいい、同じことを教えるにもその子が理解しやすい、心に浸透しやすい方法論が男女で違う。男と女が違うことを認め、受け入れ、それぞれに適したアプローチで「男として」「女として」ではなく個人としての成長を見守る。意外かもしれないが、英国では3歳や4歳の幼い頃から男女別学は充分に主流である。男子はいかんともしがたく精神的に幼く、やんちゃで衝動的なくせに論理的で、運動量が多いという傾向がある。女子も精神的に大人びて、感情や感性で「感じる」力がある割には保守的で視野が狭いところもある。それぞれの傾向特性を否定することなく、バランスよく伸ばすために、それぞれを安全な環境でよりよく孵化させる教育装置として、男女別学の制度が普及したのだ。そして英国では今もなお、特にパブリックスクールと呼ばれる学力最優秀の伝統名門校群において、男女別学は「必要」、「より良い教育結果を出している」として熱心に支持されている。
学校は、孵化装置(インキュベーター)だ。ある意味で男子校とは、男子が心置きなく「おばさん」になれる場所であり、女子校とは、女子がいかんともしがたく「おじさん」としての適性を育てられる場所でもあるのだ。「童貞文学」という言葉がある。作家は、童貞(処女)期が長ければ長いほど面白いという説だ。童貞(処女)時代の悶絶に近い苦悩煩悶が、作家性や作品の芸術としての価値を高めるという指摘である。虚実は判然としないが、いわゆる御三家とか難関校と呼ばれる学校に学ぶ「笑っちゃうくらい真面目に育ってる」少年少女の、その味わい深い個性や優秀さの説明となるようで、なんかわかる気がする。