若き日の大仁田選手は、テクニック重視の超正統派レスラー
1982年、チャボ・ゲレロを破り、NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級チャンピオンとなった大仁田厚選手がすごいと思います。今でこそ「デスマッチの開祖」「涙のカリスマ」という印象が強く、大仁田選手ご自身も、自ら“邪道”と称していますが、若き日の大仁田選手は、テクニック重視の超正統派レスラーでした。
1973年、全日本プロレスの記念すべき新弟子第一号として入団。ジャイアント場場の付き人としてプロレスのいろはを学び、翌74年デビュー。邪道どころか、王道ど真ん中のレスラーだったんですよね。
NWAインターのベルトを持って凱旋帰国した際には、ライバル団体・新日本プロレスには、あの「タイガーマスク」がいました。激しい興行戦争の真っ只中、大仁田選手は全日本ジュニアを背負い、「確かな技術を見せることで、試合内容で勝負」していたのです。
翌83年大ケガでの長期戦線離脱が元で、84年にやむなく引退に追い込まれてしまうまでの、ほんの短い間ではありましたが、大仁田はヘビー級の看板である馬場・鶴田・天龍に次ぐ、「ゼンニチ第四の看板」として輝いていたのです。
復帰後、「邪道」としてインディーズ界を引っ張り、電流爆破で世界に「オーニタ」の名を馳せてもなお、サブミッションや、グラウンドの体さばきには王道・全日本プロレスで培われた確かな技術が光っています。