転倒したライダーの名前から名付けたられたコーナー名
1962年9月にオープンした「鈴鹿サーキット」は同年11月に最初の国際格式の2輪レース「第1回全日本選手権ロードレース」をオープニングレースとして開催した。このレースには世界選手権を戦う名ライダーが数多く招かれ、インターナショナルなオートバイレースとして開催された。オープニングレースの1962年「第1回全日本選手権ロードレース」の模様
【写真提供:MOBILITYLAND】
オープニングレース当時の鈴鹿サーキット入場口周辺の様子。自由席は300円。当時は封切りされたばかりの新作映画の鑑賞権が200円という時代。舗装道路はまだ多くはなく、高速道路は日本には存在しなかった時代に完成したサーキットという施設は国民の想像を絶する世界だったに違いない。【写真提供:MOBILITYLAND】
招待選手として参戦した海外勢の中でスズキのライダーの一人が”エルンスト・デグナー”。この年、50ccクラスで破竹の4連勝を飾り初の世界チャンピオンにもなった注目選手だった。そしてデグナーはレースでトップを独走。しかし、西コースに入ったところの80Rのコーナーで転倒を喫した。名手デグナーでも転倒してしまうコーナーであったことから「デグナーカーブ」と後に名付けられた。
当時は80Rという大きく回り込むひとつのコーナーであったが、1987年のF1日本グランプリの開催に合わせた改修工事で2つの複合コーナーに改修されている。現在でもF1ドライバーが相次いでコースアウト、クラッシュを喫するなど鈴鹿サーキットの中でも攻略の難しいコーナーである。
転倒したライダーの名前から付けられたデグナーカーブ。50年経った今もその名前は変わる事がない。
過去に開催された24時間耐久レース
鈴鹿サーキットの耐久レースと言えば、オートバイの「鈴鹿8時間耐久レース」やSUPER GTの「鈴鹿1000kmレース」が有名だが、実はかつて鈴鹿サーキットでオートバイの「24時間耐久レース」が開催された年があったことは今やほとんど知られていない。開催されたのは創立から僅か3年の1965年。前年の「鈴鹿18時間耐久レース」から6時間延長されて日本初の24時間レースとして開催された。午後5時にスタートした24時間の闘いは、同レースに参戦した「ヨシムラジャパン」のサイトの資料によると、27台中15台が完走したとのこと。当時を知る人によれば、レース用のバイクには工具が積まれており、トラブルでマシンが止まるとライダー自ら工具を出してコースサイドで修復を行っていたそうだ。この当時の耐久レースはプロによる興行型レースというよりはアマチュアによる参加型レースの意味合いが強く、観衆もそう多くはなかった。
後にオイルショックが日本を襲い、耐久レースはしばらく姿を消すが、70年代半ばからは徐々に耐久レースが復活。そして、1978年からは後に若者の間で大ブームとなる「鈴鹿8耐」が開催されることになる。その礎は60年代の鈴鹿サーキット黎明期の長時間耐久レースにあったと言っても過言ではない。
次のページでは、鈴鹿といえば、このレースという4輪レースの歴史をご紹介したい。