2ページ目 【55年体制の成立、自民長期政権と参院選の関係】
3ページ目 【連立政権時代を招いた「衆参ねじれ現象」】
55年体制下での最初の国政選挙となった第4回選挙
第4回(1956年、上図)・第5回(1959年、下図)参議院選挙の結果。 |
憲法改正を考える鳩山政権と与党自民党は、改正発議に必要な参院での3分の2以上確保を目指しますが、結局あまり自民党の議席は伸びずぎりぎり過半数。社会党が改正発議阻止にあと一歩のところまで議席を伸ばします。
緑風会はさらに議席を減少させてしまいます。自民党などへの流出も相次ぎます。公明党が議席を獲得します。
安保闘争前夜の第5回選挙
1959年6月2日に施行された第5回選挙は、まだ安保問題が盛り上がらないなか行われたため、自民党は議席を伸ばすことに成功しました。しかし社会党も改選議席は伸びませんでしたが、全体の議席は改憲阻止に必要な3分の1以上の議席を確保。自社両党の勢いが、翌年に安保闘争としての激しい激突につながっていったことは否定できません。
緑風会がさらに議席を落とす一方、公明党が議席を増やしました。全国区で官僚出身者や業界関係者などが組織力にものをいわせて当選を増やしていったのもこのころからです。
高度成長時代の第6回選挙
第6回(1962年、上図)・第7回(1965年、下図)参議院選挙の結果。 |
社会党は民社党との分裂も響き、議席は伸び悩み。公明党が第3党になります。緑風会は直前に「同志会」と改称し、議席は維持。しかし活動は停滞し、1965年に解散することになります。無所属議員たちは市川房枝らを中心とした第二院クラブという会派を作ります。
自民党の都市での苦戦が始まった第7回・第8回・第9回選挙
第8回(1968年、上図)・第9回(1971年、下図)参議院選挙の結果。「二院ク」=第二院クラブ。 |
社会党は議席を回復。このころから都市での保守勢力の後退が目立ちはじめます。革新系の首長が地方自治体で相次いで誕生するなど、「地方は保守、都市は革新」という構図が、次第に明確になっていきます。公明党もさらに議席を伸ばします。
1968年7月7日施行の第8回選挙では、さらに自民党が議席を減らしますが、社会党もともに議席を減らします。増やしたのは公明・民社・共産党でした。
またこのとき、青島幸男・横山ノックといったテレビでおなじみのタレントが政党のバックアップなしで当選。有権者の既成政党に対する「政治不信」がこのころから見られるようになったということがあると思われます。
佐藤内閣で最後の参院選となった1971年6月27日施行の第9回選挙は、社会・共産党が議席を増やし、自民党は微減。自民党の長期政権への飽きが表面化するなか、社会党がその不満を受け止めることができず、伸び悩む傾向がこれからも続いていきます。
「まれにみる金権選挙」第10回選挙
第10回(1974年、上図)・第11回(1977年、中図)・第12回(1980年、下図)参議院選挙の結果。「新自ク」=新自由クラブ。その他*=第二院クラブ1、社会市民連合1。 |
そこで田中は企業を総動員し、さらには企業から集めた数百億円といわれる選挙資金を使い、集票を図ります。田中はヘリコプターをチャーターして派手な選挙戦を繰り広げます。これには自民党内部からも大きな批判が出るほどでした。
結局、自民党はむしろ議席を落として過半数ギリギリに。ここから「保革伯仲」つまり保守勢力と革新勢力がほぼ1:1という状況が続くことになります。田中の求心力は低下、その後の失脚劇へとつながっていきます。野党では社会党のほか、共産党が大きく議席を伸ばしました。
保革伯仲からダブル選挙へ 第11・12回選挙
保革伯仲の状況は、ロッキ-ド事件の影響もありその後も続きます。1977年7月10日の第11回選挙では自民党は過半数割れ、自民党から分裂した新自由クラブをあわせてかろうじて過半数といった状況でした。しかし1980年6月22日施行の第12回選挙は、自民党の内紛から起こった「ハプニング解散」によって史上初の衆参ダブル選挙となりました。野党はこの事態をまったく予想していなかったため、足並みは大きく乱れます。また大平首相の選挙中の急死もあり、同情的ムードから自民党へ票が集まっていきます。
結局は自民党はふたたび安定多数勢力を手に入れ、80年代の政局を有利に動かしていく基礎を築くことになるのでした。
次ページでは、比例代表制が導入された第13回選挙から前回選挙までをみていきましょう。