(記事掲載日/2007.06.15)

第21回目となる参議院選挙が近づいてきました。そこで、過去20回の参議院選挙を振り返ってみましょう。過去の参議院選挙の歴史をたどりながら、2007年の第21回選挙を予想してみたりしましょう。

1ページ目 【政党色が薄かった初期の参議院議員の構成】
2ページ目 【55年体制の成立、自民長期政権と参院選の関係】
3ページ目 【連立政権時代を招いた「衆参ねじれ現象」】

無所属候補が多数当選した第1回選挙

第1回参議院選挙結果
第1回参議院選挙(1947年)の結果。
1947年4月は選挙の月となりました。日本国憲法が5月3日に施行されることにあわせたもので、5日に知事・市町村長選挙、20日に参議院選挙、25日に衆議院総選挙、30日に都道府県・市町村議会選挙が相次いで行われたのです。

参議院議員選挙の5日後が衆議院議員総選挙という、今では考えられない日程ですね。しかし、政党候補が多数を占めた衆議院と違い、参議院では無所属候補が多く当選することになります。

その背景として、参議院を「良識の府」と位置付け、戦前の貴族院同様、政党政治からある程度距離をおくものであるべきだ、政党政治をチェックする存在であるべきだ、という考え方が割合に強かったことがあるといえるでしょう。

結局、無所属議員は111名当選することになります。この大半と、中道政党の国民協同党が合流して、中立的な会派「緑風会」を結成することになります。これが参議院の最多勢力となり、参議院は衆議院とはかなり異なった構成でスタートすることになります。

そのせいか、この時期は参議院が衆議院で可決した法案を否決し、衆議院が再可決(3分の2以上の賛成による特別多数決)権を行使することも多くありました。1953年までの間に、衆議院は参議院の否決に対抗するため18回もの再可決権を行使しています(1954年以降は、一度もありません)。

ちなみに、第1回から第12回までは、比例代表選挙は行われず、都道府県単位の地方区と、個人の資格で立候補する全国区が設けられていました。

また、参議院は3年ごとに半数づつ改選するという憲法の規定があったため、第1回の選挙では、任期3年の議員と任期6年の議員をそれぞれ選挙していました。

保守・革新政党の議席が伸びた第2回選挙

第2・3回参議院選挙結果
第2回(1950年、上図)・第3回(1953年、下図)参議院選挙の結果(改選議席のみ、以下同じ)。
第2回選挙は1950年6月4日に実施。この月の25日に朝鮮戦争が起こり、日本は特需景気に沸くのですが、この時点ではそれ以前の、GHQ主導によるデフレ政策(ドッジ・ライン)による不況のなか行われました。

しかし、吉田首相率いる与党自由党は順調に議席を伸ばし、過半数はとれませんでしたが緑風会に代わって第1党の座を確保します。社会党も同様に議席を伸ばしました。その分、緑風会の議席は大幅に減少しますが、第3勢力の座は維持していました。

第2次世界大戦を終結させる講和条約を、社会主義国を除外した単独講和にするのか、すべてを含める全面講和にするのかも選挙の争点でしたが、緑風会の大勢は自由党と同じ単独講和でした。このことが緑風会の「独自性」を薄め、議席を失った原因だと言えるでしょう。

衆議院との事実上のW選挙になった第3回選挙

第3回選挙は、第26回衆議院総選挙が施行された1953年4月19日の直後、4月24日に行われました。

吉田首相派と鳩山一郎を中心とする反吉田派が激しい抗争を繰り広げ、そんななかで吉田首相の国会での「バカヤロー」発言が問題となり内閣不信任案が可決、その結果いわゆる「バカヤロ-解散」が急きょ行われてしまったため、このように衆参の選挙が接近した日程になってしまったのでした。

しかしその影響はそれほどはなく、与党自由党は参議院での第1党の地位を守ります。社会党は左右に分裂していましたが左派を中心にがんばり議席を確保。緑風会も当選を増やし、勢力を維持します。

緑風会からは著名人が全国区から立候補するようになり、実際全国区での緑風会の当選は増えました。「タレント議員」の始まりです。

ちなみに、栃木県佐野市の投票所で候補者氏名や所属政党が誤って掲示され、この選挙が有効か無効かをめぐる訴訟がおこされました。最高裁は佐野市の投票を無効としたため、再選挙が行われています。

次ページでは、55年体制下での参議院議員選挙の様子についてお話していきます。