(2006.11.01)

安倍政権発足から1か月、このあいだ安倍首相の祖父「岸信介」という人にスポットを浴びせる記事や評論が目立ちました。「岸DNA」という言葉もさかんに使われましたが……そんな岸について今日は解説します。

1ページ目 【岸信介と「国家社会主義」との関係】
2ページ目 【戦時中の統制経済を担った岸信介】
3ページ目 【首相に上り詰めた岸の足をすくったものとは】

【岸信介と「国家社会主義」との関係】

祖父・岸信介に影響を受けた安倍首相

『美しい国へ』
安倍首相が首相就任前に発表し話題になった著書『美しい国へ』
安倍首相が書いた『美しい国へ』(文春新書)には、いろいろと祖父・岸信介の話が出てきます。

この本のなかで安倍首相は、岸が安保条約を「隷属的な条約を対等なものに変えた」と評価し、また「国民年金制度と最低賃金制度という、福祉の基礎となる二つの制度ができたのは……岸内閣のときである」と、岸のあまり語られない業績を強調しています。

また、この本の第一章「わたしの原点」では、自分が「保守主義者」であることが自負を込めて述べられていますが、そこにも岸の影響が見て取れるところがあります。

「小さなころから、祖父が『保守反動の権化』だとか『政界の黒幕』とか呼ばれていたのを知っていたし、『お前のじいさんは、A級戦犯の容疑者じゃないか』といわれることもあったので、その反発からか、『保守』という言葉に、逆に親近感をおぼえたのかもしれない。」(『美しい国へ』から)

おそらく安倍首相の人格形成に大きな影響を与えた岸信介について知ることは、一つの意義があるのかもしれません。

官僚として始まった岸のキャリア

さて、その岸について、ここから語っていきましょう。

山口県に生まれた岸は、東京帝国大学(現在の東京大学)在学中すでに高等文官試験(今でいう国家公務員I種試験)に合格し、卒業後すぐに農商務省に入省します(1920年。後に農林省と商工省に分かれ、岸は商工省へ)。彼の政治的キャリアは、まず官僚として始まったのでした。

優秀な成績を持つ岸が、当時の花形省庁の内務省などではなく、「二流官庁」ともいわれた農商務省に入ったことは周りの人にとっては意外なことでした。

これからの権力の中枢は「経済」にある、と考えていたからではないか、と考えるのは、生前の岸にロングインタビューを行って出版し、岸研究の第一人者である原彬久氏(東京国際大学教授)の見解です(『岸信介 権勢の政治家』)。

事実、彼は早くから「国家社会主義」というものに触れていました。天皇制の枠内で国民の平等を図ろうとするこのイデオロギーは、マルクス主義とはまた違う立場から、「統制経済」の必要性を主張していました。

岸は、こうした環境のなかで、政治力の軸足を内務省のような警察力ではなく経済においたのでした。そして、やがて戦時中の統制経済をリードする「革新官僚」として活躍することになるのです。

戦前の社会主義の動き

戦前の社会主義運動
戦前の社会主義運動はいったん高揚したが、「国家社会主義」の台頭とともに体制にとりこまれていった
ここで、戦前の社会主義というのがどういう状況だったのか、整理しておきたいと思います。

明治末期の「大逆事件」(社会主義者たちが「天皇暗殺」を企てたとして多数逮捕、処刑された事件)をきっかけに「冬の時代」に入っていた日本の社会主義運動ですが、大正時代になって徐々に復活してきます。

その転機となったのが世界初の社会主義革命、ロシア革命の勃発でした。これに刺激され、1920年には日本初のメーデーが行われるなど、労働運動や社会主義運動は次第に高揚していきました。

そして1925年の普通選挙導入に前後する形で社会主義政党(無産政党)も相次いで結成されていきました(ただし共産主義は、治安維持法によって徹底的な取り締まりを受けていました)。

このようななかで、社会主義運動から国家社会主義運動に転じる人たちが出てくるようになりました。北一輝などはその例です。

1931年の満州事変による日本の満州占領の成功は、その動きを加速させました。有力な社会主義者だった赤松克麿は「満州権益の社会主義的国家統制」を主張し、国家社会主義へと転じました。

赤松派が抜けたあと結成された戦前最大の社会主義政党・社会民衆党も、反ファシズムをうたいながら、しだいに「軍隊と無産政党の合理的結合」を主張し始め、徐々に国家社会主義へと軸足を移しはじめます。

結局、近衛文磨が新体制運動を唱えはじめると、他の政党とともに社会民衆党は解散し、大政翼賛会に合同していったのでした。

さて、そんななかでの岸信介の「革新官僚」としての活躍とその挫折について、次のページでみていきましょう。