2ページ目 【選挙制度改革、海部退陣と「小沢面接」】
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【金丸失脚、経世会分裂……ひたひた迫る政界再編】
金丸失脚の衝撃
1992年8月22日、朝日新聞はあるスクープ記事を掲載しました。東京佐川急便の元社長、渡辺広康が、金丸に5億円献金したというものでした。これは立派な政治資金規正法違反でした。政界に波及する佐川急便事件の始まりです。小沢は検察との対決姿勢を見せますが、オーナー・竹下は金丸に柔軟路線をとるよう説得します。こうして金丸は上申書の提出、略式起訴という形をとり、ことをおさめようとします。
しかし、1回も検察庁におもむかないまま、事情聴取もないままの処分に、国民から大きな批判が巻き起こります。連日ニュースはこのことで金丸を叩きます。金丸は、議員辞職を決意します。
こうしてあっけなく金丸は失脚しました。こうなると、金丸の権威のまえに息を潜めていた反小沢グループが大きな声を上げはじめます。その1人が橋本龍太郎であり、そしてもう1人が、梶山静六でした。
反小沢グループをバックアップした竹下
最高幹部たちは「経世会7奉行」と呼ばれていました。もちろん筆頭は小沢です。渡部恒三、奥田敬和はいち早く小沢につきました。橋本と梶山は小渕を引き入れました。唯一、小沢に親しいながらも羽田は当初態度を明らかにせず、中立と考えられ、動向が注目されていました。
こうして「一枚岩」と考えられていた経世会は一気に、金丸後継をめぐって泥沼の抗争状態に入っていったのでした。
こんななか、渡部は竹下を訪れ、幹部を説得し、合議制による会の運営を求めるよう、懇願します。しかし、竹下は煮え切りません。
実際、竹下は経世会の参議院議員(経参会)に手を入れ、事実上反小沢グループに肩入れしていきます。経参会の多くが反小沢にまわったことで、雌雄は決したかに見えました。
羽田の擁立といきなりの「原田見解」
反小沢グループは、小渕を次期会長候補に擁立しました。ここで、小沢は中立と見られていた羽田を会長候補に、と発言し、反小沢グループの一気呵成な小沢潰しは、いったん腰折れになります。小沢グループの「経世会有志の会」の主要メンバー、石井一と船田元は羽田を説得。こうして羽田は出馬を決意します。羽田の求心力は大きく、反小沢グループをたじろがせるには十分でした。
しかし、会長を決定する経世会最高幹部会が紛糾する中、座長を努める原田憲は、いきなり席を立って外に待機する記者たちに「見解」を示します。それは小渕が後継にふさわしいというものでした。
これで最高幹部会は「原田見解」の白紙撤回を求める小沢グループとそれに応じようとしない反小沢グループのあいだでさらに紛糾。結局、小沢グループが退席するなか、小渕後継が決定されたのでした。
経世会分裂~政界再編へ
こうして小沢グループ44人が経世会を離脱し、「改革フォーラム21」を結成しました。羽田派とも、羽田・小沢派ともいわれました。羽田は、こう語って、これまでの「ボス派閥」との違いを主張します。
「小沢にも悪いところはある。僕はその都度注意している」(1992年10月30日、朝日新聞)
そして奥田は、スキャンダルにまみれた自民党からいずれ離脱して、「羽田新党」を作ることを示唆していました。この段階で羽田の国民からのイメージはかなりよいものがあったことが背景にありました。
こうして、羽田派の旗揚げは、その後の政界再編に大きくつながっていきます。おりしもこの分裂劇の前行われた参院選では、細川護煕率いる日本新党が旋風を巻き起こし、議席を獲得していました。
宮沢内閣の暗転・金丸逮捕
そして、経世会支配は終わりを告げました。経世会は第4派閥に転落し、その勢いを急速に失っていきます。竹下は小沢ともに佐川急便事件について証人喚問を受けました。佐川急便事件では、竹下による右翼団体への裏工作が指摘されていたからです(いわゆる「皇民党事件」または「ほめ殺し事件」)。
経世会の支持を受けていた宮沢内閣も、徐々に衰えていきました。経済面では、バブルが崩壊して景気は後退、円高基調が続いて輸出産業に逆風が吹いていましたが、今一つ効果的な手を打てないでいました。
それでも、予算案はなんとか予定通り衆院を通過しました。……しかし、その次の日、金丸が脱税容疑で逮捕されてしまいます。政局は、一気に波乱の度を深めていくのです。
※「自民党の歴史(9)経世会支配とその崩壊」についての参考書籍・資料はこちらをごらんください。
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宮沢政権を「作った」経世会は分裂、そして金丸逮捕……ひたひたと迫る政界再編 |