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自民党の歴史(9)経世会支配とその崩壊(2ページ目)

中曽根時代の後、自民党を支配したのは竹下派=経世会でした。経世会は竹下だけの派閥ではありませんでした。ドン金丸信、そして小沢一郎。経世会支配時代の自民党を描きます。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【経世会支配の成立と小沢一郎の台頭】
2ページ目 【選挙制度改革、海部退陣と「小沢面接」】
3ページ目 【金丸失脚、経世会分裂……ひたひた迫る政界再編】

【選挙制度改革、海部退陣と「小沢面接」】

公明・民社と手を組んだ小沢自民党

小沢は、「普通の国」として日本が「国際貢献」をするその第1歩が、自衛隊のPKO(国連平和維持活動)参加であると考えました。

そこで、小沢は公明・民社に接近をはかります。なにせ参議院は野党が過半数を占めていますから、その野党の支援なくして自衛隊PKO派遣の立法化は実現しません。

さて、おりしも1991年、東京都知事選挙が予定されていました。自民党・東京都連は現職の鈴木俊一を推しますが、公明党が支持を拒みます。公明党は、首長の多選・高年齢化批判を行いはじめており(鈴木はこれが4回目の選挙、80歳に達していた)、都議の定年制も実行していました。

その公明党が支持者を裏切るような鈴木支持をすることができない……小沢はここに目をつけて、公明党が好むような候補の人選を行います。小沢のらつ腕がふるわれ、元ニュースキャスターとして知名度の高かった磯村尚徳を候補に擁立します。

しかし、肝心の自民都連、そして東京都出身の自民党議員が猛反発。結局、分裂選挙となり、小沢の推した磯村は落選、鈴木の4選が果たされます。

この責任をとる形で、小沢は幹事長を辞任します。ただし後任には経世会の小渕恵三が就任。小沢は経世会会長代行となり、権力を維持し続けます。

小選挙区構想と海部内閣の倒壊

小沢のもう1つの計画が、「選挙制度改革」でした。彼は思いきった選挙制度改革によって、政界再編を行おうとします。

それが、「小選挙区比例代表並立制」の導入でした。

政治学者の大嶽秀夫氏は、小沢の構想をこう分析します。まず、小選挙区制によって、左翼政党に壊滅的打撃を与える。そして、「後援会」中心の政治システムを「政党本位、政策本位」のシステムへと変ぼうさせる(『日本政治の対立軸』中公新書より)。

このことによって「時代遅れでわずかな得票しかしていないのに議席を持っている」左派政党を切り捨て、国際貢献でき、発言力を持つ日本へと、小沢は変えていこうとしたのでした。

しかし、この構想は自民党内部から批判が相次ぎます。自民党にもまた、中選挙区の恩恵にあずかりわずかな得票のみで議員になっている人が少なからずいたからです。また、小選挙区制は「政権交代が容易」ということで、それが国民へのアピールポイントだったのですが、それに危機感を感じていた人々がいました。

YKKの指導

また、「経世会支配」への批判も、これに重なっていきました。このころから、派閥を超えたYKK連携、つまり山崎拓(中曽根派)、加藤紘一(宮沢派)、そして小泉純一郎(三塚派)の経世会批判が聞かれるようになっていました。

経世会幹部であり、小沢と親しい羽田孜が選挙制度調査会会長として小選挙区比例代表並立制への改正法案づくりにのりだしますが、党内は紛糾します。

小泉純一郎氏 法案が初めて出たばかりだ。このままだと、都知事選の二の舞になる。
羽田氏 了承してほしい(拍手と「何をいうのか」などの怒号で騒然)。
(1991年6月28日朝日新聞より)

結局、一度は提出された選挙制度改正法案は、反対派の働きかけもあって廃案に。海部首相は「重大な決意で臨む」と衆議院解散を示唆しましたが、経世会が同調しませんでした。

小沢は、より強いリーダーを欲していました。かくして、国民の高い支持を誇りながら、海部政権はあっというまに倒壊してしまいました。

「小沢面接」と宮沢政権の誕生

経世会からも当初、小沢、橋本、羽田らを候補へ、という声はありました。しかし、3人ともこれを固辞。これをみて、宮沢派から宮沢喜一、渡辺派(中曽根派から移行)から渡辺美智雄、三塚派(安倍派から移行)から三塚博

「リクルート謹慎」から明けた派閥の領袖たちがそろいぶみし、総裁公選へと動いていきました。しかし、3人とも、第1派閥である経世会の支持をとりつけなければ勝利を手にできない状態でした。

小沢は、永田町の自分の事務所に、この3人を呼んで「面接」を行います。40代の男が、60代の派閥領袖たちの主張を聞き、経世会としての支持を判断する。まさに小沢権勢の絶頂を物語るものでした。

しかしそれは、後々まで「ごう慢政治家」のレッテルを貼られ、いろいろなところで敵を作る要因でもあったのですが。

小沢は、宮沢に決めました。ムードとして、竹下が退陣し、安倍が亡くなったあと、「最後のニューリーダー」として宮沢支持が無難、ということはいわれていました。

ただ小沢は、「選挙制度改革の早期着手」「国際貢献への立法化を進める」この2点を、宮沢から引き出したことを決定打にしているようです。

経世会臨時総会は、どこかしらけていました。宮沢支持を決めたものの、拍手はまばら。会長金丸が、拍手を求め、会議はおわりました。金丸が小沢をバックアップしている限り、小沢の権勢はどこまでも絶大でした。

こうして、公選。宮沢285票、渡辺120票、三塚87票(党員・党友票も加算)。宮沢政権発足となりました。幹事長は経世会の綿貫民輔、官房長官は宮沢派加藤紘一。選挙制度改革にまい進してきた羽田は大蔵大臣に。

そして92年、公明・民社の協力により、「PKO協力法」が辛うじて成立。小沢プランの第1歩が完成しました。

しかし、この数カ月後、小沢、そして経世会に大きな衝撃が走ることになります。

面接
小沢経世会会長代行による「総裁候補者面接」金丸の寵愛を受ける40代後半の小沢は権勢の絶頂にいた

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