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【「仕事師内閣」中曽根政権の誕生と田中の大きな影】
田中派の力で総裁予備選で圧勝、総裁の座につく中曽根
さて、闇将軍田中は、次の「駒」を中曽根にすることにしました。ひとくせもふたくせもある中曽根でしたが、田中はおそらく、「最後のポスト佐藤」として雌伏している中曽根に恩を売ることで、自身の力を保とうとしたのだと思われます。こうして、田中・鈴木・中曽根の3者の間で、「後継中曽根」が合意されました。問題は、福田です。
鈴木・福田に二階堂を加えた「調整委員会」では、「総理総裁分離論」が提唱され(提唱したのは突然話し合いの場に飛び込んできたという田中派の田村元)、これを福田は中曽根首相、福田総裁の条件で呑んだといいます。
しかし、中曽根はこれを拒否。あくまで数で押し通し、福田の勢力拡大を阻止しようとする田中の思惑からきた中曽根への指示でした。ここでもまだ、田中と福田の「角福」代理戦争は、行われていたのでした。
こうして、またも一般党員が参加する予備選挙がスタート。各候補には、一般党員の票でなら……という思いがあったと思われますが、しかし前回大平が勝った予備選と同じく、ここでも田中派の力は大きなものがありました。
結局予想を上回る大差、党員の過半数の票を得て中曽根が圧勝。河本のほか、安倍、中川が立候補していましたが、彼らは本選を辞退。中曽根総裁が決定しました。
「角影内閣」と揶揄(やゆ)された中曽根内閣の人事
できた内閣人事は、まさに「角影」内閣。「闇将軍」の権勢を知らしめる人事になりました。つまり、田中派が実に6名(「田中系」まで入れると8名)入閣。首相の側近職であり、自派のナンバー2などを登用する官房長官のポストまで、田中派(後藤田正晴)。大蔵大臣も田中派のホープ竹下登。
しかし、福田派から総務会長(細田吉蔵)、外務大臣(安倍晋太郎)など重要職が出されたため、福田派も不承不詳で了解せざるを得ませんでした。
こうして、田中の強力な支援のもと、中曽根政権はスタートしたのでした。
パフォーマンスで得点を稼ぐ中曽根政権
しかし、中曽根は鈴木と違い、パフォーマンスに長けた宰相でした。まず、田中が手を出さない外交での得点を狙います。アメリカを訪問し、レーガン大統領といわゆる「ロン・ヤス」とよびある緊密な関係を構築。これによりサミットではレーガン・サッチャー英首相の間に堂々と「ポケットに手を突っ込んで」立ち、国民の関心を引きます。
「日本列島は不沈空母」などのタカ派的発言は革新層の反発を生むものの、保守層の間では「日本のナショナリズムを高揚させる優れた宰相」という評価が定着していきます。
内政においても、自ら陣頭に立って数多くの首相直属審議会・私的懇談会などを作って行財政改革などの政策を立案させます。自らの内閣を「仕事師内閣」とよび、トップ・ダウンによるリーダーシップで鈴木との対比を強調。
もっとも、それによって生じる党内での軋轢(あつれき)は、田中派に根回ししてもらっていたのですが。そうした意味でも、初期の中曽根にとって田中派はなくてはならない存在だったといえます。
近づいてくる「ロッキード・田中判決」の足音
しかし大きな問題が待っていました。それは、83年秋に予定されていた田中のロッキード事件地裁判決でした。地裁判決とはいえ、有罪判決が出れば、国民世論は沸騰、それに乗じて福田らも田中排除を叫ぶのは必至の情勢。田中は有罪判決に備え、中曽根に指示して衆参同日選(W選)をやらせる構えをみせました。1980年のW選が自民圧勝に終わったように、自民党に有利といわれるW選で自民党がなんとか勝利する、自民党が負けても田中派は生き残れる、これで乗り切ることができる……と田中は考えていました。
しかし、中曽根はそこまで露骨に田中擁護にまわることを、次第にためらうようになって来ました。せっかく稼いできた得点を、一気に吐き出してしまいかねない。
こうしてW選は回避されましたが、(83年6月参院選、はじめての比例代表選で自民勝利)、10月になって、いよいよその日を迎えることになります。
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