(2005.10.13)

大平正芳は派閥抗争のなか文字通り「倒れ」、鈴木善幸が田中角栄のバックアップと福田赳夫の抗争休戦によって総裁の座へ。ここから80年代、「永久政権下」するなかで生まれていった「システムとしての派閥」そして「族議員」とは。

1ページ目 【鈴木首相の「和の政治」と党内融和、そして田中派の膨張】
2ページ目 【自民党の「永久政権化」と「派閥=族議員」システム】
3ページ目 【「仕事師内閣」中曽根政権の誕生と田中の大きな影】

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【鈴木首相の「和の政治」と党内融和、そして田中派の膨張】

「派閥システム」が定着する80年代の自民党

1980年総選挙で自民党は圧勝したものの、首相・大平正芳は激烈な派閥抗争のなか死去。これをピークに自民党の厭戦(えんせん)気分は一気に高まり、自民党は急速に抗争から融和へと向かいます。

もちろんその「融和」は、「闇将軍」田中角栄と、「黄門」福田赳夫の権力バランスのうえに成り立っていたのですが……ともかくも70年代の熾烈な権力抗争は、表面上、ここでいったん幕を下ろすことになります。

そして「派閥」は、それまでの抗争の単位としての派閥から、巨大な自民党にとって、議員と党になくてはならない「党内システム」として定着していくようになるのです。

それはまず人事に表れました。閣僚ポストでの「派閥均衡」がうたわれ、やがてそれは「派閥順送り人事」「派閥単位人事」へと発展していきます。能力いかんに関わらず、派閥の力学で、人事が決まっていく……。

今回は、この派閥政治がシステム化していく80年代初期の自民党を見ていくことにします。

「本人すらなる気がなかった総裁の座」に推された鈴木善幸

さて、大平死去後、自民党総裁候補に挙げられたのは、中曽根康弘、三木派を継いだ河本敏夫、旧大平派のプリンス的存在・宮沢喜一でした。

しかし、結果的に、このなかの誰も総裁になることはできませんでした。一番有力だった中曽根は、土壇場(大平内閣不信任案決議時→くわしくは第6話「四十日抗争」参照)に裏切られたと感じた福田が拒否。宮沢は、どうも田中の好みではなかったようで、拒否(インテリ肌の宮沢と人情政治家的な田中はいかにもウマが合いそうにありませんが)。

そして、三木派を継いだ河本は、予備選に持ち込めば有利との声もありましたが、さんざん親分の三木にこりている田中・福田両者が拒否。

このあたり、二大キングメーカー、田中と福田の党内融和に向けての「配慮」が見え隠れします。

結局、総裁になったのは、本人すらその気がなかった「旧大平派の大番頭」鈴木善幸に決まったのでした。

キングメーカー、つまり党の最実力者たちと、表面上のトップが異なる「権力二重構造」。80年代末期から90年代にかけての自民党でたびたびみられるこの現象、その発祥は、ここに端を発しているといえるでしょう。

鈴木政権の「和の政治」……党内融和の確立

さて、党内融和を重視した鈴木は、まず派閥均衡人事に着手。閣僚人事は、鈴木派がいちおう総裁派閥ということで6名、福田派と田中派が4名ずつ、中曽根派2名、河本派2名、中川派1名、無派閥2名。

また、党三役人事も、幹事長桜内義雄(中曽根派、ただし派閥色は薄いと考えられていた)、政調会長安倍晋太郎(福田派)、総務会長二階堂進(田中派)。均衡人事は徹底されました。

そして鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げ、党内融和を第一にする政治を行っていくのでした。

一見、国民不在の派閥抗争が収束し、国民は安心したかもしれません。しかし、激烈な抗争をまでして総理総裁の座をつかもうとした田中・三木・福田・大平と違い、特に意欲もなくその座についた鈴木の迫力は、弱かったとしかいいようがありません。

それは、のちのち、一つの事件として発展していきます。

「金権批判」があっても進んでいった田中派の膨張

さて、ここで派閥が持つようになった重要な役割を考えてみたいと思います。

いや、その前にこのことを考えて見ましょう。1980年、総選挙後の派閥勢力(衆参あわせて)を見てみます。

田中派が一番多く99名。鈴木派(旧大平派)は82名、福田派80名、中曽根派49名、河本派42名、中川派11名(その他は無派閥)。

これが84年になると、田中派118名、鈴木派79名、福田派67名、中曽根派55名、河本派35名、自殺した中川の派閥を継いだ石原慎太郎(現都知事)派6名。田中派は一気に膨張していきます。

なぜ、金脈疑惑、ロッキード疑惑……などと「ダーティー」なイメージを持つ田中の勢力が、一番強く、かつ膨張していったのでしょうか。

ちなみに次回のお話になりますが、84年時点での勢力は83年「田中有罪判決」を受けて解散総選挙となり、自民党が敗北した後でのことです。そう考えるとますます不思議に見えます。

田中についての一連の疑惑の真相がどうか、というところにはここでは触れませんが(筆者には不可能なので)、とにもかくにも庶民的には「悪の権化」とみなされていた田中のもとに、なぜこうまで政治家たちは群がっていったのか、このことを考えたいと思います。

「カネ」の集金・分配にいちばん長けていた田中

80年代になって定着した「自民党派閥の機能」としてあげられるのは、次の3つであろうと思われます。

(1)総裁選での派閥抗争機能
(2)政治資金の集金と分配機能
(3)ポスト配分機能

このなかで一番政治家たちを集めた機能が(2)政治資金の分配でした。政治には、選挙にはどうしても「カネ」がいる。「カネ」があって初めて政治家になれ、そして権力が手に入る。

こうしたことから、派閥が持つ「カネの集金と分配」機能は、政治家たちにとって一番の魅力だったわけです。

この「集金と分配」が一番うまかった人物こそが、実業家から政治家になり、多くのファミリー企業を抱えていた田中角栄でした。

彼はこの機能を駆使して多くの議員を手中に入れ、田中派を膨張させた上で、田中派の(1)つまり総裁決定の機能(キングメーカーとしての権力)を強化させ、そして(3)自民党のポスト配分において大きな影響力を手に入れたのでした。

それでは、なぜ(2)集金・分配の機能を、党ではなく派閥が担ったでしょう。次のページで考えて行きます。

◎自民党の抗争は収まったが……依然として膨張を続ける田中派