2ページ目 【ロッキード事件と田中=大平・福田の微妙な動き】
3ページ目 【三木退陣……しかし思うように得点が伸ばせない宰相・福田】
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【ロッキード事件と田中=大平・福田の微妙な動き】
ロッキード事件の発覚と三木の行動
年が明けて1976年、アメリカ連邦議会上院・多国籍企業小委員会でロッキード社の日本への贈賄工作が明らかになり、いわゆる「ロッキード事件」が明るみになりました。これが政府高官──つまりは大物政治家──にまで及んでいる可能性が報道され、国民は真相解明を求めます。と同時に、もはやこれまでか、と思われていた三木も、復活します。
つまり三木は、ロッキード事件を契機に、一気に「政界浄化」を果たし、その支持基盤を広げようと考えたわけです。
三木はアメリカ大統領・フォードに親書を出し、捜査協力を要請するという挙に出ます。こうして、三木は「ロッキード事件の陣頭指揮を執る『クリーン三木』」という評判をとっていくことになるのでした。
田中再始動と「ロッキード隠し」への国民の反発
これに対し、傷心から癒え、復活に向かって田中は猛然と立ち上がろうとしていました。ちょうど、今年は衆院選の年。田中派を引き締め、復権に向かって立ち上がろうとしていました。そして、財界も一度失速し左傾化政策をあきらめた三木がまたも「独走」し始める勢いが出てきたことに危機感を覚えていました。彼らは田中、そして福田への支援をも始めていきます。
そんななか、5月13日、読売新聞は一面で「三木おろし工作」をスクープします。それは、三木の政策に不快感を持ち始めていた椎名が田中、大平、福田と極秘に会談、「三木早期退陣」で一致したというものでした。
これは当然国民には「大物政治家たちによる『ロッキード隠し』」とみられてしまい、大きな反発を買い、そして三木の人気は相対的に上昇します。結局、これを契機に三木のボルテージはますます上がっていくのです。
7月上旬には大物財界人たちが次々に逮捕。そして、7月27日、とうとう前の宰相・田中の逮捕にいたったのでした。いつ、逮捕するのか、そもそも逮捕するのか、それに三木と法相だった稲葉修がどれだけ関わっていたかはわかりませんが、少なくとも「黙認」していたことは間違いないようです。
屈辱に燃える田中の猛然とした勢い
田中の逮捕で、三木は「クリーン三木」のイメージで国民の信頼を集め、それをてこに自らの勢力基盤を固めることができると判断していましたが、そうは問屋が卸しませんでした。かえって、「三木おろし」は激しくなっていきます。反三木派も、田中の逮捕で開き直りました。そして田中派は憎さ百倍です。すさまじい反撃に出ました(もっとも、田中は逮捕後、自民党を離党)。
まず、自民党内で田中・福田・大平派らによる「挙党協(挙党体制確立協議会)」が結成。衆参国会議員のうち7割が参加、ロッキード事件で生まれた党内分裂の解消を呼びかけます。それはすなわち、「独走」三木を降板させることに等しかったのです。
挙党協には、閣僚20名中15名が参加しました。もはや「首相の懐刀」である解散権も、このような状況では行使できません。
ポスト三木をめぐる「反三木派」の微妙な関係
それでも、三木は解散をさぐっていました。分裂選挙になったとしても、このタイミングで解散すれば、三木には有利だったかもしれません。しかし、解散にはまず国会の召集が必要。臨時国会の召集は内閣総理大臣ではなく、内閣の決定事項です。内閣の閣議は全会一致で決定されますから、「臨時国会→反対閣僚罷免→解散」を警戒する福田副総理らは、臨時国会の召集に消極的です。
緊張した状況が、内閣の中で生まれました。
しかし、「ではだれがポスト三木になるのか」。この点では一致していませんでした。三木はこれを大平と福田に突きつけます。二人にとって、それは痛いことでした。
結局、(1)政治休戦をし臨時国会を開く、(2)国会前に内閣・党人事を一新する、(3)選挙前に党大会を開く、ということで合意されました。
福田と大平には、臨時国会開催を許してでも、「どちらが先に総理になるか」を決めるだけの時間的余裕が、どうしても必要だったわけです。
photo:((c)東京発フリー写真素材集)