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まぼろしの日本国王・徳川秀忠(3ページ目)

なぜ、天皇制はその力を失いつつも、江戸時代までを生き抜いてきたのでしょうか。なぜ、時の権力者は天皇制をなくさなかったのか。ここでは、徳川政権と天皇制の関係を中心にお話します。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【複雑な土地制度「荘園制」の天皇制存続の関係】
2ページ目 【徳川家康・秀忠親子の「絶対王政」構想とその挫折】
3ページ目 【将軍権威再興のため天皇権威に挑んだ新井白石・松平定信も挫折】

【将軍権威再興のため天皇権威に挑んだ新井白石・松平定信も挫折】

主権を将軍に取り戻そうとした新井白石とその挫折

当初、幕府は対外文書の中で、将軍のことを「日本国王」と書いていました。しかし、その後、先のページでも説明したとおり、「国王は天皇だろう」というになったので、やがて将軍は「日本国大君」と書かれるようになっていました。

さて、五代将軍綱吉の死後、将軍の政治顧問として「正徳の治」(1709~16)を実施した新井白石は、幕府財政悪化と、綱吉の後半の政治の評判の悪さ(特に、「生類憐れみの令」とかですね、蚊を殺しても厳罰でしたから)で、低下していた将軍権威を、なんとか再建しようとしました。

その1つが、将軍=「日本国王」号の復活、というものでした。

儒学者でもあった新井白石の、将軍=国王理論の背景については、明らかになっていないところも多いのですが、彼は、室町時代からすでに将軍が主権者であり、天皇は名目上の存在に過ぎないと考えていたようです。

よって、将軍が国王を名乗ることに何の問題もなく、逆にへつらって「大君」などと称するのはおかしい、ということでした。

ただ、この改革は、すぐ挫折します。8代将軍として徳川吉宗が就任し、新井白石が幕府から去ると、吉宗は将軍称号を「大君」に戻します。こうして、白石の「最後の抵抗」も失敗したのでした。

「尊号一件」にみえる天皇権威の静かな高まり

とはいえ、幕府が朝廷を管理していたことには変わりなく、朝廷の「任命権」や「叙任権」なども含めて、統治権はあくまで幕府がその後も保有し続けました。

しかし、幕府や武士たちは次第に、天皇権威に頼ろうとするようになり、相対的に、幕府権威は低下していくことになるのです。それを示しているのが「尊号一件」という事件でした(1789年)。

当時、幕府の政治の中枢にあったのは「寛政の改革」(1787~93)の指導者、老中松平定信でした。そんななか、時の光格天皇が、実父であるが天皇ではなかった典仁親王に、「上皇」の称号を与えたい、と申し出てきたのです。

そんなこと先例がないのでダメじゃ、と定信はこれを拒絶し、一件落着……のはずだったのですが、そうはいきませんでした。

なぜか、これがもとで定信と、将軍徳川家斉の父、徳川(一橋)治済との間で不和が生じ、定信は老中辞任に追い込まれたのです。

治済は、将軍実父として江戸城に君臨し、ゆくゆくは前将軍が名乗る「大御所」の称号を得ようとしました。一方、定信は、幕府秩序の観点から、これに反対していました。

治済は、もし典仁親王が「上皇」になれば、自分も「大御所」を名乗れるだろう、と思っていた……しかし、それが定信によって阻止されたので、定信と対立するようになった、というのです。

結局、老中とともに「将軍補佐役」に任命されていた定信は、将軍家斉の成長によりその補佐役を返上する旨を申し出たところ、なぜか「老中辞任を許可する」ということになり、体よく追放されたのでした。

この事件の真相は今ひとつ明らかでないところもあるのですが、とにかく、事実上の最高権力者、治済でさえ、天皇の権威を利用しなければ「大御所」を名乗れなかった、ということにおいて、天皇権威が次第に上昇していき、将軍権威は天皇権威の下におかれつつあった、ということがみてとれます。

このようなことが、やがて「水戸学」ともつながって、幕末の尊王運動につながっていったのだろう、と思われているのです。

家康の「好み」が招いた?「徳川絶対王制」の崩壊

最後になりましたが、なぜ、「スーパー・パワー」家康・秀忠親子は、「天皇制を廃止」しなかったのでしょう。

家康は、実は非常に保守的で、学問好きでした。仏教・儒学・神道に精通し、好んでいたと言います。

なので、天皇から政治的権力をいっさい奪って主権者を徳川家にする、というのはできても、日本神道の「首長」であり、「神の子孫」である天皇から、「神道の首長である天皇をなくす」ということは発想自体、神道好きな家康からは生まれなかったわけです。

家康の頭の中では、天皇=「教皇(ローマ法王)」であり、宗教的最高権威で、儀礼的に将軍を任命するが(ナポレオンが教皇から冠をもらったように)、しかし基本的に「主権者は将軍」、というのが彼の思い描いた江戸システムの構図だったのでしょう。

しかし、このことが結局、「将軍」「天皇」という「2人の君主」の並立を許し、「徳川絶対主義」を中途半端なものにしてしまったわけです。

そのため、結局、将軍は天皇から任命された存在に過ぎない。そして、藩(大名の領地)はあくまで将軍が天皇に任命されたから臣従しているに過ぎない。この理屈がまかり通ってしまうことになるわけです。

幕府権威が大きなときはそれでもよかったのですが、幕府権威が落ち、成長した一部の藩(薩摩・長州などですね)と、天皇が結びついたとき、幕府は上下から揺さぶられ、そして滅んでしまうことになるのです。

そして、明治が幕を開け、「天皇絶対君主制」がスタートするわけです。そのお話は、また次回。

>>参考資料一覧

第1回目「ヤマトの王が天皇を名乗った理由」はこちら。

▼こちらもご参照下さい。
大人のための教科書 政治の超基礎講座

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◎できあがった水戸思想による幕府と天皇の関係
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