1ページ目 【複雑な土地制度「荘園制」の天皇制存続の関係】
2ページ目 【徳川家康・秀忠親子の「絶対王政」構想とその挫折】
3ページ目 【将軍権威再興のため天皇権威に挑んだ新井白石・松平定信も挫折】

【徳川家康・秀忠親子の「絶対王政」構想とその挫折】

足利義満の朝廷のっとり計画

中世の半ば、天皇制は一時、大きな危機を迎えます。それが、一時「スーパー・パワー」を確立した、室町幕府3代将軍、足利義満の存在でした。

彼は、南北朝の対立を終わらせ、有力武士を巧みな政治的センスで次々に滅ぼし、大きな権力を打ち立てました。そして彼は皇族に準ずる地位を与えられ、出家した後には、法皇(出家した上皇)のみが着るべき法衣を着て、すっかり天皇気分でした。

しかし、彼は急死してしまいます。彼は、息子の足利義嗣を天皇にすえるつもりだった、という話もあります。

いずれにせよ、それはかなわず、義満と折り合いの悪かった4代将軍足利義持は父義満の政策をすべて否定し(朝廷からの上皇の称号も返上)、義嗣を殺害し、この企ては完全に終わってしまいます。

荘園制がなくなり、生まれた「スーパー・パワー」

結局、荘園制がなくなるのは、「下克上」がおこり社会システムが根本的に変わってしまう戦国時代になってからでした。

ほとんどの戦国大名たちは、自分たちの領地の「君主」としてふるまい、土地をすべて自分のものにして荘園制を否認し、荘園を管理していた武士たちには代わりの給料(俸禄)を与えたりして、「小国家」を作っていきます。

そして、その「小国家」を征服していった織田信長、そしてそれを継いだ豊臣秀吉の天下統一によって、荘園制は終わりを告げたのです。そして、豊臣秀吉・徳川家康というかつてない「スーパー・パワー」が、誕生したのでした。

巧妙かつ平和的に「絶対君主」の座を奪った徳川家

江戸幕府を開いた徳川家康は、もともと「主君」だった豊臣氏も滅ぼし、完全な「絶対王制」を完成させました。この場合の「王」とは、もちろん徳川氏です。

彼らは大名を完全に支配したばかりか、天皇・朝廷に対しても「禁中並公家諸法度」を出して、朝廷や天皇の権限を規定、天皇までもその管理下においたのです。

もちろん、承久の乱(1221年)以降、実質上は、天皇は武家政権によってなかば管理されていたのですが、このように公然と法律を作り、天皇を「従わせた」のは徳川氏だけでした。

そして家康は死後、「東照大権現」として朝廷から神号を得て祭られます。秀吉も祭られていますが、家康が得た称号「権現」とは最上位の神のことをいいますから、ここに、家康と徳川氏は、「神の子」天皇にほぼ匹敵する権威を得たことになります。

こうして、家康の子、2代将軍徳川秀忠は、日本の「国王」として、君臨することになったのでした。天皇は、いわば日本の伝統を守る文化的な首長にすぎなくなり、すべての統治権は秀忠に集約されたのでした。

こうして、かなり巧妙かつ暗黙のうちに、「日本国の君主」の座は天皇から将軍へと移っていったわけです。しかし、それは長続きしませんでした。

「将軍主権」がさらに確立した「紫衣事件」

まず、「叙任権闘争」がおこります。つまり、僧侶の位を誰が決めるか、という争いです。これが1629年の「紫衣(しえ)事件」でした(紫衣とは高位の僧侶が身に付けるもので、名目的には天皇が決めていました)。

当時の後水尾(ごみずのお)天皇は、幕府に同意を求めることなく紫衣を与えたのですが、これが問題になり、幕府はその天皇の命令を無効としてしまったのです。

こうして、「叙任権」さえも天皇は奪われ、時の外国人が書いているように天皇の地位は一種、「教皇(ローマ法王)的存在」になってしまうのでした。

強大だったはずの「将軍主権」に早くも限界が

しかし、後水尾天皇は引き下がりませんでした。天皇が位を譲ることも、当然幕府の許可が必要だったのですが、彼はいきなり明正天皇(女性です)に位を譲ってしまいます。これが、「紫衣事件」の直後に起こった「俄(にわか)の御譲位」事件だったのです。

これには幕府も動揺します。しかし、混乱の末結局、許可のない譲位を認めてしまいます。これにはいろいろ理由があると思われるのですが、明正天皇は、秀忠の娘であり天皇の皇后になった和子の唯一の子だったので、認めざるを得なかったようです。

このことによって、「将軍家=日本国の絶対君主」の地位は、一瞬にして揺らぎ、そして崩壊していくのでした。

「天皇権威」を利用して天下統一を進めた豊臣秀吉

どうして徳川家の思惑は外れたのか。時代を豊臣秀吉の時代に戻してみます。

秀吉は、信長政権を継いだあと、最初は武力で日本統一をしようとします。しかし、それに立ちはだかったのが、徳川家康でした。戦術の天才・秀吉にとって、同時代に戦略の天才・家康がいたのは、大きな不幸でした。

結局、「小牧・長久手の戦い」で家康に勝てなかった秀吉は、武力統一の限界をさとり、朝廷権威に結びつきます。つまり、天皇の法定代理人である「関白」となり、天皇に代わって「惣無事令」を発し、「皆のもの、天皇のもとに結集し、戦いをやめよ」ということをいうわけです。

これはずいぶん効き、そして従わない大名だけを「成敗」することで、わりあい効率的に天下統一を完成させることができたのでした(1590年)。

よく、豊臣秀吉は源氏でなかったから将軍になれず、しかたなく関白になった、ということがいわれますが、これは俗説のようです。

そもそも、徳川氏が源氏であることも疑わしいのです。その権力から考えれば、秀吉が「農民に身を落としていたが、実は源氏の末えいである」なんて言おうと思えば言えたはずです。

秀吉は、おそらく中世的な「将軍」に限界を感じ、これからの時代は天皇家だ、豊臣家は関白になることで日本を支配するのだ、このように考えたのではないでしょうか(この考えは、主君だった織田信長の影響を受けた、ともいわれます)。

江戸初期はむしろ天皇権威が高まっていた

まあ、秀吉の考えはともあれ、秀吉が関白となって天皇権威を利用したことによって、自動的に天皇権威もまた大いに復活します。

それを象徴する出来事が、秀吉が京都に作った「聚楽第(じゅらくだい)」への後陽成天皇の行幸(天皇が外にでること)でした。華々しく行われたこの儀式は、人々の心に、秀吉の権威とともに、天皇権威の大きさもまた、焼きつけることになるのでした。

こんなことがあってから半世紀もしないで徳川家は天皇権力の統制にうごいたのですから、天皇が面白く思うはずもありませんし、人々の意識にもまた、「天皇が日本の君主」という考えが残っています。むしろ中世よりもそれは増していたはずです。

こういう背景が、最終的に幕府が後水尾天皇の譲位を食い止めることができなかったということに、つながっていたのだろうと思われています。

徳川家内部でも「天皇主権説」が定着

さらに、徳川家内部からも、「天皇=君主、将軍は天皇の家臣」という考えが生まれてしまい、「将軍絶対君主説」は完全に崩壊してしてしまいます。

まず、水戸藩主だった徳川光國(水戸黄門ですね)が、儒学を基本とした「水戸学」をつくりあげます。

儒学は「君臣の義」を説きます。家臣は君主に従いなさい、と。光國は、将軍は天皇の任命によってその地位にあるのだから、あきらかに家臣だ。よって、将軍は天皇に従わなくてはならない、というものです。

そして、これに大賛成してしまったが、5代将軍・徳川綱吉でした。彼もまた儒学マニアでしたから、水戸学に大賛成し、天皇に対する「第一の家臣」としての義務を果たそうと考えます。

あの「忠臣蔵」の冒頭のシーン、浅野長矩(ながのり)が吉良義央(よしなか)を斬り付けた事件ですが、あれくらいの傷害事件で切腹って、厳しいなあ、と思った人は多いのではないでしょうか。

しかし、綱吉にしてみれば、「恐れ多くもミカドの御使者がお通りになる松の廊下を血で汚すなど、万死に値する」という発想なのです。そのため、「喧嘩両成敗」という武家法は無視され、浅野長矩は切腹、お家とり潰しになってしまったのですね。

こうして、「将軍国王(皇帝)説」は、ほぼ完全に消え去ろうとしていました。これに最後の抵抗を試みたのが、綱吉の死後、将軍の政治顧問として実権を握った、新井白石だったのです。

「徳川絶対王政」にのしかかった「豊臣家の呪い」