2ページ目 【十字軍の迷走・失敗と、宗教改革による教皇権威の失墜、そして再建】
3ページ目 【バチカン市国の誕生と、「現代的教皇」ヨハネ=パウロ2世の活躍】
【十字軍の迷走・失敗と、宗教改革による教皇権威の失墜、そして再建】
「十字軍」の迷走
さて、11世紀、東ローマ帝国=ビザンツ帝国は、イスラム勢力の進出などにより領土の縮小を余儀無くされていました。特に、セルジューク=トルコの力は強く、圧迫をうけたビザンツ帝国は、教皇に救いを求めました。これをうけた教皇ウルバヌス2世は、1095年のクレルモン教会会議で聖地回復の聖戦を起こすことを決め、各国の諸侯・騎士たちからなる十字軍が結成されました。
これにより、当初はイスラム勢力から聖地エルサレムを奪回し、「エルサレム王国」を建設しましたが、やがて奪い返され、以後はなかなかうまくいきませんでした。
そんななか、後にイングランド王ジョンを破門するなど、「絶頂期の教皇」とよばれるインノケンティウス3世は、地中海での貿易権拡大をねらうヴェネティア商人の要求により、第4回十字軍を結成、こともあろうかビザンツ帝国の首都であり、地中海貿易の重要拠点だったコンスタンティノーブルを占領します。
このようなことから、十字軍はやがて迷走し、結局は「失敗」に終わることになります。
「十字軍」が西ヨーロッパにもたらした「近代」
しかし、十字軍により、西ヨーロッパの商業圏は広がり、西ヨーロッパにも商業都市が建設され、貨幣経済が進展します。一方、十字軍の担い手であった教皇・諸侯・騎士たちの勢力が衰え、やがて国王の権力が増大していきます。
また、人々が十字軍によってイスラム文明(当時、世界最先端の文明はイスラム文明だった)や、ビザンツ文明(古代ギリシア・ローマの影響を色濃く残す)に触れることにより、人々の視野は拡大していき、これがルネサンスの原動力になります。
こうして、商業の進展、国王権力の増大などが、ヨーロッパに「近代」をもたらすことになるのです。
教皇権威の失墜
さらに、教皇権威の失墜を物語る出来事が起こりました。まず、教皇ボニファティウス8世は、フランス王フィリップ4世に一時捕らえられてしまいます。さらにフランスは、教皇が政務を取る教皇庁(聖座(Holy See))をローマからフランスのアヴィニョンに移して干渉します。これを、「教皇のバビロン捕囚」といいます。
さらに、教皇がローマに帰還すると、今度はアヴィニョンにも教皇が立ち、約40年間、教会大分裂(大シスマ)が生じてしまいます。こうして、教皇権威はかなり低下してしまいました。
そして、宗教改革のはじまりです。まずその先駆となったウィクリフ・フスらは弾圧され、思想は発展しませんでしたが、その後、教皇権を真っ向から否定するルター・カルヴァンの思想=プロテスタンティズムの広がりを押さえることができませんでした。
また、イギリス王ヘンリ8世が、禁止されていた王妃との離婚を実現するというきわめて個人的な理由でローマ教会から独立したイギリス国教会を創設、これも教義的にはプロテスタンティズムが採用され、教皇権から離脱します。
教会権威の立て直しとアジア・アメリカへの伝道
しかし、ローマ教会も、手をこまねいていたわけではありません。教会権威を立て直すため思想統制を図り、そして大航海時代の担い手であったスペイン・ポルトガルと組んで、従来の教義=カトリックの、アジア、そして新大陸アメリカへの普及につとめます。たとえば、スペインとポルトガルによって植民地化されたラテンアメリカでは、このカトリックが伝えられ、多くの新しいカトリック教徒を生み出しました。
また、日本にやってきたフランシスコ=ザビエルらは教皇の指導のもと「イエズス会」を作り、アジアへの伝道につとめます。今でもフィリピン人の84%は、カトリック教徒です。
彼らの活動は、カトリック勢力のばん回に大きく貢献し、これ以上の教皇権威の失墜を防ぐことに成功しました。
次ページでは、近代以降の教皇について、説明しましょう。