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京都議定書ほんとの基礎知識1(2ページ目)

先月発効した京都議定書。国際社会が一団となってCO2削減に取り組むという画期的な条約です。とはいえ、その全貌を知っている人ははたしてどれだけいるのか…ほんとの基礎知識を頭に叩き込みましょう。

執筆者:辻 雅之

1ページ目 【京都議定書の意義と、そこに横たわる難問】
2ページ目 【国際社会が温暖化対策にとりくみはじめた90年代はじめ】
3ページ目 【京都会議前夜までの、EU・アメリカ・日本の動き】

【国際社会が温暖化対策にとりくみはじめた90年代はじめ】

こちらも要チェック! 政治についての基本知識と基本用語

画期的な「地球サミット」開催まで

地球規模での環境問題についての話し合いは、1971年調印のラムサール条約(水鳥の生息地域を保護する条約ですね)締結会議から始まり、翌年には国連人間環境会議(ストックホルム会議)が開かれました。

そして1987年には当時大問題となっていたフロンガス(オゾン層を破壊するからですね)を規制するモントリオール議定書が締結されるなど、地球規模環境問題を話し合うベースは、着々とできつつありました。

さて、地球温暖化問題が世界各国で関心を呼ぶようになったのは1970年代からです。そもそも温室効果ガスの理論は19世紀には生まれ、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』なんかにもその理論が取り入れられていました。

しかし1970年代、科学の発展とともに温室効果ガスの増加に伴ういろんなシミュレーション結果がでてきて、こりゃやばいことになるぞ、と国連が感じはじめました。

しかしそれでもよくわからないので、とにかく研究をしてみようということになり、国際社会は国連機関などを中心に前ページでも紹介したIPCC(気候変動に関する政府間パネル)を創設、科学的見地での国際的研究にとりくみはじめました。

IPCCは何度かレポートを出しましたが、その中で、確かに温室効果ガスが上昇して気温も上昇しており、このままだと海面上昇、生態系の変化、氷河の減少、砂漠化の加速などが進行するという結論を国際社会に公表しました。

そこで国際社会は、冷戦の終結というチャンスにも恵まれたこともあり、1992年、ブラジルのリオデジャネイロで大々的に「国連環境開発会議」を開きました。

ま、でもこの難しい名称は大学受験生だけ覚えてもらえればいいです。普通の人は「地球サミット」と覚えましょう。ともかくもアメリカ大統領はじめ各国首脳が一同に会し(日本はビデオレターでしたが)、話し合いをしました。

もっとも各国首脳が一同に会したのはセレモニー的な要素が強く(そりゃそうだ、特に科学者でもない人たちが集まって具体的なことを決められるはずがない)、実際の話し合いは1991年から地球サミットまでの間にできていたのですが。

ま、ともかくもこの地球サミットでいろいろな条約ができたのですが、一番重要だったのが「気候変動枠組条約(UNFCCC)」です。ここではじめて、地球温暖化について、とりあえず何かやるぞ、という条約ができたのです。

具体的には何も決めていない気候変動枠組条約

しかし、この条約はあくまで「枠組」条約であって、少々非科学的でもいいから何かやるぞ、ぐらいの意味合いです。削減するための手段が決まったわけではありません。

具体的に決まったのは、次の3つです。

(1)この条約が発効し次第、条約締結国による締約国会議(COP)を、できれば年1回、行って具体的な削減方法を決める。

(2)先進国と旧ソ連の比較的先進国、東欧諸国を「附属書I国」、さらにその中から先進国を「附属書II国」とする。

(3)COPに事務局と、科学的助言を与える機関としてSBSTAを置く。

もう1つ加えるなら、

(4)先進国は、とりわけがんばる。

そのくらいですが、地球温暖化にまだ多くの人が「?」を感じていた時期に、ここまでのことが合意されたのだから、まあまあの成果だと考えていいと思います。なにせ1980年代までは、地球は温暖化するどころか氷河期に入るとかいわれていましたからねえ。

COP1~ベルリン・マンデート~COP2

この枠組条約は、京都議定書にくらべると比較的スムーズに発効しました。なにせ一番に批准したのが、石油資本にバリバリ関係している父ブッシュ大統領時代のアメリカでしたから。結局締結から1年9ヶ月ほどで、すんなり枠組条約は発効しました。

そして、枠組条約の通り、最初のCOPがベルリンで行われました(COP 1)。いろんな問題が噴出したものの、比較的スムーズに合意事項が形成されていきました。

そんななか、発言力をみせたのがG77といわれる途上国グループです(G77といっても現在は120カ国ぐらい。G77と中国が同盟すると、「G77+中国」とよばれる)。

彼らは、CO2削減が石油離れにつながると心配する産油国を除いて、先進国に、具体的な削減目標を早く作らせることを要求します。こうしてできた合意が「ベルリン・マンデート」でした。

・「特定の時間的枠内における排出抑制および削減の定量的な目標を設定する。」
・「本プロセスの検討結果が第3回締約国会議の場(筆者注:COP3のこと)で採択されることを目指して、(中略)設定されるべきである。」
(「京都議定書の評価と意味」マイケル・グラブ、クリスティアン・フローレック、ダンカン・ブラック共著、松尾直樹監訳、財団法人省エネルギーセンター)

ここで、COP3がどこで開かれるのかが問題になりますよね。結論からいうと、それは京都だったのです。それが決まったのは次ページでお話するCOP2だったのですが。

つまりCOP1とCOP2の決定によって、1997年の京都会議で、具体的なCO2の削減量や削減方法を決めなければならなくなったのです。もちろん、議長国は、日本です。ここで、日本にとって大きな重荷がひとつ加わったのでした。

議長国として会議を成功させなければならない、重荷です。

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