我らの世代を席巻したファッションVAN創業者、石津謙介氏曰く「ダンディズムとは独りよがりとやせ我慢のことである」と。他人が見たらどうでもいいことだったり、自分だけのためにちょっとだけ一点豪華主義を持ち込んだりと、まぁトリビアなこだわりですね。自分が選んだ好きな地域に住み、好きなファッションを選び、好きなものを食べる。これぞ田舎暮らしの理想のスタイルじゃないでしょうか。
本シリーズは、自ら信じる道を行くならば、百万人とて我行かんの男性専科。淑女の皆様、どうぞお見逃しを。
さて、今回は「Gパン」にこだわりますぞ。
反抗と優しさのシンボル、Gパン。
Gパンとは、ジーンズのこと。1873年にリーヴァイズ・ストラウス(Levis Strauss)が、金鉱労働者の仕事着としてデニムでパンツを作ったのが始まりで、仕立て屋ジェイコブス・ディヴィスと鋼鉄のリベットを打って特許を取った話は有名ですね。太平洋戦争直後、日本に駐留していたアメリカ兵の俗称がGI(ジーアイ)だったことから、GIパンツ→Gパンになったという説が有力です。ちなみに、GIとはGoverment Issue(官給品)の略。1940年代は、世界的にもまだ流行していませんでした。
1950年代に入り、ハリウッドの映画が黄金期を迎えます。その中には、それまでのスターの枠を超えた新しいスターが誕生しました。「乱暴者」で暴走族のリーダーを演じた、マーロン・ブランド。黒の革ジャンと黒いブーツ、ジーンズという格好で登場し、バイクを乗り回して暴れまくります。大人たちはその不良ぶりに眉をひそめ、自分の子供にはGパンをはかせようとしなかったといいます。その時のGパンが、Levi'sの「501」。
◆マーロン・ブランドのGパンを見てみる>>THE WILD ONE GALLERY at HOLLYWOOD TEEN MOVIES
その数年後、遂にジェームス(ジミー)・ディーン(JAMES DEAN)が登場します。映画「理由なき反抗」でナイーブで傷つきやすい若者を演じ、世界の若者たちの共感と熱狂を得ることになりました。その時のGパンが、Leeの「101ライダース」。
◆ジェームス・ディーンのGパンを見てみる>>All Photos from Rebel Without a Cause
日本のGパンスターたち。
60年代になると、日本でもカルメン・マキが紅白歌合戦で「時には母のない子のように」を裸足でGパンをはいて唄ったし、その後の新宿駅西口フォークゲリラ(集会ですな)あたりから普段着としての定着していきました。まだまだ古臭く貧乏臭いものとされていましたが、70年代に登場したニューミュージック(荒井由美など)によって、ファッションアイテムとして認知されたといわれています。この頃でしょうか、Gパンがジーンズと呼ばれるようになったのは。
もう一人、70年代にぶっ飛んだスターが登場します。自分の腹の傷に手をあてがい、それをおもむろに見つめて「なんじゃあ~、こりゃ~~!」と殉職する、刑事ドラマ「太陽にほえろ」のGパン(柴田純刑事/松田優作)。彼もGパンの似合う男でした。
日本で最初にGパンをはいた男がいた。
白洲次郎。身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能。吉田茂元首相のブレーン。通産省をつくった男、マッカーサーを叱った男。元祖カーキチ。エリート街道から、さっさと百姓になってしまった男、そして日本で最初にジーンズをはいた男。とにかく、ダンディズムのカリスマ的実践者。50年代初期という年代を考えると、Levi's 501XXか、Lee 101Zといった感じか。◆白洲次郎のGパンを見てみる>>武相荘 New Home Page
それから半世紀超。Gパンはベルボトム(懐かしや、ガイドも愛用していました)、つぎはぎジーンズ、デザイナー・ジーンズ、ストーンウォシュ・ジーンズ、美脚ジーンズ、そして超タイトなスキニージーンズなどまで変化し続けてきましたが、古くて新しいのがGパン。都会でも田舎暮らしでも、同じ世代で同じGパン愛用者とすれ違ったら、アイコンタクトで挨拶を交わす。団塊世代はそれだけで「同志」と解るはずです。
次は、田舎暮らしでのGパンの選び方です。