任天堂ゲーム/任天堂ゲーム関連情報

任天堂が乗り越えてきた“危機”【後編】(2ページ目)

1970年代まで慢性的な借金経営が続いていた任天堂。しかし、ひとつの商品が、その後の任天堂を大きく転換させ、いまや国内第3位の大企業にまで成長させるキッカケになりました。

執筆者:川島 圭太

「一強」時代の終わりから学んだこと

ファミリーコンピュータ
(1983年発売)

任天堂が考案した、ソフトの「粗製濫造」を防ぐための仕組み。それは、ハードメーカー(任天堂)からライセンスを供与されたソフトメーカーだけが、ファミコン向けのソフトを開発できるという、独自の管理体制です。ソフトメーカーはゲーム内容について任天堂の審査を受けたうえで、カセットの生産を任天堂に委託することでゲームを発売することができました。現在の任天堂やソニー陣営も、基本的には同じ仕組みをとっています。

こうした市場管理の成果もあってか、1980年代後半には任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』のほか、エニックスの『ドラゴンクエスト』、スクウェアの『ファイナルファンタジー』など、任天堂以外のメーカーからも国民的な大ヒット作品が続々と生まれ、ファミコンブームは日本中に広がっていきました。セガなどの競合ハードメーカーも現れましたが、スーパーファミコンに世代交代したあとも任天堂の「一強」時代は続いていきます。


プレイステーション
(上写真・1994年発売)
ニンテンドウ64
(下写真・1996年発売)

そして、スーパーファミコンの全盛期が過ぎようとしていたころ、任天堂に強力なライバルが現れました。1994年に「プレイステーション」でゲーム事業に参入したソニー・コンピュータエンタテインメントです。プレイステーションは任天堂の市場シェアを大きく奪い、任天堂の「一強」時代は終わりを迎えます。

……と、ここで記事の結論を先に述べておきますが、ニンテンドーDSとWiiの成功の背景には、ソニー陣営の優勢を許してしまっていた時代──すなわち「ニンテンドウ64」と「ニンテンドーゲームキューブ」の時代に直面した「危機感」が大きく関係しています。任天堂はここでも、危機から多くのことを学んでいたのです。

まずは、ニンテンドウ64時代について。
メディアに大容量のCD-ROMを採用したプレイステーションに対し、任天堂はカセットを採用しました。容量の大きさよりも読み込みの速度を重視して、ゲームのテンポが損なわれることを避けようとしたのです。その判断自体はけっして間違っていなかったのですが、64ビットCPU搭載のニンテンドウ64は、ソフト開発に相当な技術力を要したうえに、『ドラクエ』『FF』などの大人気シリーズがプレイステーションに移籍するなど、多くのユーザーやソフトメーカーが任天堂ハードから離れてしまう結果となりました。

<この時代に任天堂が学んだこと>
■CPUの性能ばかりを高くしても、使いこなせなければ意味がない。
■ゲーム開発者にやさしい環境を作らないと、よいソフトも生まれない。

この教訓を活かして、任天堂はつぎに「ゲームキューブ」を投入します。この時代にますます強くなった「危機感」が、その後の任天堂を大きく変えていくことになります。

 

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