孔は、対戦相手となるサムソノフのフォア投げ上げサービスを想定し、練習パートナーに似たようなサービスを出してもらっては、ネット際に小さく落とす「ストップ」、払いとも呼ばれる「フリック」などのレシーブからのラリーを丹念に繰り返していた。額からは汗がだらだらと滴り落ち、見ているほうが疲労を感じるほどの激しさなのだが、いっこうに練習を切りあげる様子はない。
驚いたのは、感触がしっくりこないのか、孔がスペアラケットまでを取り出してきて卓球台に向かったことだった。間もなく試合会場に向かう選手が、それも95年の世界選手権、昨年のシドニー・オリンピックと、2度も男子シングルスの金メダルを首から下げた男が、試合直前の練習で予備のラケットを試すことがにわかには信じられなかったのである。
それだけの不安を抱えていたのだろう。シドニー・オリンピック以降、故障などで満足な練習ができなかった彼は、今大会になっても本来の調子を取り戻せず、「精密機械」と評されるオールラウンドプレーは影をひそめていた。
その状態を象徴しているのは、男子団体準決勝の韓国戦で2敗を喫したことだった。彼がひとつでも勝っていれば歴史に埋もれてしまったであろう試合を、世界選手権史上、屈指の名勝負として語り継がれるに違いない激闘にしてしまったのは、ほかならぬ孔自身だった。チームメートの踏ん張りがなければ、帰国してから「戦犯」扱いされるのは避けようがなかったところだ。
さらに、孔が対戦する元世界ランキング1位のサムソノフは、97年の世界選手権で2位、98年ヨーロッパ選手権で優勝という実績を持ち、つねにその名を優勝候補につらねる存在だった。今大会、ベスト8入りを賭けたスウェーデンのワルドナーとの試合では、10回連続の出場を果たし、過去のすべての大会でメダルを獲得している卓球界のモンスターにまったくつけいる隙をあたえず、ヨーロッパのエースの新旧交代を印象づけていた。
孔が練習をやめたのは、私が見はじめてからゆうに40分は経ったころ、やってきた審判から試合会場にはいるように促されたときだった。それでもなお名残惜しそうな表情をしている孔に強い印象を受けた私は、ふたたび観客席に足を運んだ。そこで、圧巻のプレーを眼にすることになる。