成功のポイントは“大きい、背が高い、動ける身体能力”
――ベイダー、ビッグバン・ベイダー、スーパー・ベイダー・・・。貴方は様々なリングネームで活躍しましたが、「ベイダー」という名前の由来は何だったのでしょうか?「大学でアメリカンフットボールをしていた頃、新人(一年目)の時は、ブル・パワーって呼ばれていたが、二年目あたりからは、ザ・ブルと呼ばれ、大学卒業をする頃には、またブル・パワーとなっていた。
プロレスへ転向し、AWAやヨーロッパに上がった際には、そのままブル・パワーの名前を利用していたね。その後、新日本に入った時に、猪木から付けられたのがベイダーという名前だった。日本で5世紀に存在したウォリアーだったと聞いていたが実際のところはどうなんだ(笑)。
もちろん、ベイダーは、スターウォーズとは関係ないよ(笑)」
――今も尚、日本マット史上、最高の外国人レスラーはベイダーさんだという声は沢山あります。日本での成功の秘訣は何だったと考えますか?
「スタン・ハンセン、バンバン・ビガロ、スティーブ・ウイリアムスという選手がいる中で、俺のことを一番成功したと言ってくれるのは光栄だ。彼等と並べて質問してもらえることに対してもね。
俺がどうして成功したかと言えば、日本で人気のあるスモーリキシの様に大きいし、背が高いし、動ける身体能力があったことが挙げられるだろう。
俺は400ポンドの体重だったが、200ポンドのレスラーの中に入っても、同じスピードで動くことができたので、かなり珍しいというのがポイントだったのではないか?」
――ベイダーさんは新日本、全日本、ノアと多くの団体に出場しましたね。最も思い出深い試合やイベントは何でしょうか?
「新日本の猪木、全日本の馬場、ノアの三沢・・・。皆、優秀だったけど、印象に残っているのは、猪木さんは将来を考えてくれる人で、馬場さんは親切な人、三沢さんはクリエイティブな人だったということ。
それぞれが団体のシンボルだし、世界中を探してもこれほどのプロモーターはいないだろう」
――日本で印象に残っている試合は?
「両国でやったGPシリーズ(91年G1クライマックス)でしょう。俺は、橋本、蝶野、武藤と対戦したが、大会のクライマックスでは、スモーアリーナに、ファンの投げ入れた無数の座布団が舞ったことを覚えているよ。
後は、有明コロシアムで、猪木と闘った時のこと。俺は腕に60針を縫うケガをしたしね。ケガでは、東京ドームでスタン・ハンセンとも闘ったが、この時は、自分の目玉が外に飛び出そうになって、試合中に自分で無理矢理押し込んだことを覚えている。自分は闘った試合についてはあまり話さないんだけど、この三つは強く印象に残っている」