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秋山事件なぜストップできなかったか?(12)

今年の大晦日、唯一の地上波放映となった『Dynamait!!2006』を舞台に勃発した、秋山vs桜庭の“ヌルヌル”騒動。その大勝負を台無しにした物はいったい何だったのか。(完結編)

執筆者:井田 英登

【承前】

“それでも勝ちたい”という心理

さて、この稿を締めくくるにあたって、最後に器具違反という行為を犯す選手の心理自体の問題を考えてみたい。

実際、前回の原稿では柔道着が着衣規定の“抜け穴”となっている事を指摘したが、他にも確信犯的にコスチュームを使って、試合を有利に運ぼうと考える選手もいる。

例えば、青木真也は、昨年8月26日のPRIDEデビュー戦以来。ひときわ目を引く黄色いロングスパッツをトレードマークに試合を行い、しばしばその着用についてコミカルな発言を行う事で知られる選手だ。普段からエキセントリックな発言の多い青木は、「親が恥ずかしがって止めてくれと言う」といったエピソードや、コメディアンの江頭2:50との類似などを自ら指摘して、シニカルに自らのコスチュームを評するため、単なるキャラクター戦略か何かと思ってしまいがちだが、実はこれも着衣規定のグレイゾーンを利用した例に他ならない。

効用は秋山の潤滑剤とは180度逆で、「滑らない」事にある。

三角締めなどの足関節を駆使する青木にとって、汗で滑るのは千載一遇のチャンスを逃す不利な条件。だがロングスパッツを着用していれば相手の体は滑らない。吉田の胴衣同様、相手をホールドする上で、青木はスパッツを立派な“武器”にしているのである。

実際当人も自己のblogでもこの効用を
「グラップラーはロングスパッツ!まず滑らない!!」と明言しているし、12月の「男祭り」前の公開練習ではスパッツに加えて、上半身の胴衣着用も考えるような発言を行っている。如何に青木が、着衣規定を徹底的に利用しようとしているかが、このあたりのエピソードでも伺うことができる。

無論、これは彼が闘うPRIDEはもちろん、プロ修斗でも、ルールの範疇で認められている。したがって、吉田の柔道着同様「合法の範囲内」となる。(おそらく修斗ルールがスパッツにたいして寛容なのは、初期のシューターがロングタイツ(スパッツ)をコスチュームとすることが多かったためであると思われる。)

だが、着衣によって選手の条件が異なることを嫌うUFCでは、既に胴衣もロングタイツも着用禁止という方針を打ち出している。(※筆者注:当初原稿ではパンクラスでも禁止と書いておりましたが、ルールに照らした所ロングタイツの着用は禁止していませんでした。お詫びして訂正いたします。)MMAの競技性を緻密に考えるなら、このルール設定が一番正しい。選手個人の着衣のセレクト次第で試合展開に差が出るといったルール設定は一刻も早く撤廃されるべきであり、すべてのMMAルールはこの方向に収斂してほしいと願っている。

ただ、こうした競技用具の問題は、格闘技以外のスポーツでもしょっちゅう議論の対象になるのも事実ではある。

例えばプロ野球での金属バット使用禁止もそうだし、F1などのモータースポーツでも毎年のようにエンジンやボディの空力構造、給油やタイヤの使用回数に厳しい禁止項目が課せられる。

競技者側は、ルールの間隙を突いて、知恵と工夫でボールの飛びやコンマ数秒のラップを縮めようとするだろうし、競技運営者の方はあくまでイコールコンディションを保とうとする。両者の間で、激烈な“開発競走”の火花が散るのは、ある意味仕方が無いことなのかもしれない。

この“いたちごっこ”は、プロスポーツだけに留まらず、アマチュアスポーツの祭典であるオリンピック競技でも日常のように繰り広げられているのが現状だ。陸上競技のシューズ、競泳の水着、スケート靴のカッター部分など、選手本来の技能以上の部分で、成績を左右する“技術革新”が次々に投入されている。

むしろスポーツメーカーにとって、四年に一回世界が注目する最大の舞台は絶好の“商品見本市”と言っても良い。メダリストの名前を冠したコンシュマーモデルは爆発的な売れ行きを示すだろうし、そのために多額の開発資金も投入される。プロ競技以上にシビアな“開発競争”に走る傾向がある。(MMAに近接する競技であるブラジリアン柔術などでも、袖や襟のサイズや形状を微妙にカスタマイズすることで、相手に掴みにくくするといった工夫が日常的に行われ、実際胴衣メーカーの売れ行きに影響が出る。)

“どうあっても勝ちたい”という選手の意識、あるいはその勝利によって莫大な利益を手にしたいという企業の欲望が、こうした過当競争をどんどんエスカレートさせているのだ。

フェアプレイ精神を失った格闘技は、見せ物でしかない

正直言って、僕にはこうしたの動きはスポーツ本来の精神を逸脱した物に見えるし、行き過ぎた“工夫”は唾棄すべき物だと感じている。既に批判が定着しているドーピングや器具の不正使用なども、すべては『フェアプレイ精神』から遠く隔たった『功利主義』の産物でしかないからだ。

“勝てば官軍”の発想が支配するのであれば、スポーツは“仁義なき闘い”に堕してしまう。仮にモータースポーツのように、選手の肉体性の向上よりも、競技用具の開発競争自体が主になる特殊な競技なら、それも一つの“見せ物”になるかもしれない。だが、本来スポーツは、あくまで人間の肉体と精神を鍛錬することで、限界を超えて行こうとする崇高な行為ではなかったか? 

もし薬物やハイテクメカの進歩を“人工添加物”として積極的に取り入れるべきだと考える人々が居るなら、正々堂々と「ドーピング・オリンピック」や「凶器全面解禁格闘技大会」でも開催すればいいだろう。

ただそんなものはスポーツではない。
断じてない。

まして、ルールの裏をかき、不正を隠蔽することで勝利の利権を奪い合う行為は、競争でさえもない。そんなズルさや抜け目のなさだけを争う醜い闘いに、誰が感情移入などできよう? 

ただでさえ、ヤクザが興行に介入するような“不正行為”を指弾されている格闘技の世界の話である。格闘技に関わる全ての競技者、イベント関係者のみならず、マスコミやファンも含めた“格闘技関係者”全てが、フェアプレイの重要さを根本から見つめ直さない限り、世間は格闘スポーツ自体を“ルールを守れないならず者の集まり”として蔑み続ける事になるだろう。テレビ放映の休止や、スポンサーの撤退といった問題も含めて、我々は今一般社会から、根本的なコンプライアンス(遵法精神)の有無を問われているのである。

本来、裸一貫の人間が、徒手空拳で闘うという格闘技の根本には、騎士道精神でいうところの“決闘”の思想が色濃く反映している。命をかけてまで、己の信義を問う者は、絶対に卑怯な行為をしてはならない、そんな根本精神があるからこそ、決闘は崇高なものとなり、単なる暴力とは一線を画した物となってきたはず。

プロ格闘技のビジネス化が進みすぎた結果、このスポーツから騎士道精神/武道精神が失われ、古代ローマ末期の奴隷とライオンの対決を思わせる“過激で退廃的な見せ物”にまで堕落してしまっているのだとしたら、これほど愚かしく、また悲しい事は無い。
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