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失われた扉~TK再び世界へ 高阪剛34歳、UFCへのリベンジ1(4ページ目)

日本を代表する格闘家として名高い高阪剛。しかし、UFCでのブランクは二年を超える。パンクラス王座奪取を梃子に、世界の頂点に最後の挑戦を目論む高阪の10年間の苦闘を振り返る。

執筆者:井田 英登


モーリス・スミスとの邂逅。そしてUFCへ

“一介の若手”から“期待のホープ”へとジャンプアップした高阪は、UWF系の選手との異種格闘技戦で名前を売り、本業のキックでも長らく無敵を誇ったWKAヘビー級チャンピオンモーリス・スミスのリングス初参戦を迎え撃つ一番手に自ら志願。なんときっちり勝利を収めてしまったのである。

試合後、わざわざ高阪の楽屋まで訪ねたモーリスは「これからは総合に進出したいから寝技を教えてくれ。俺は立ち技を教えてやるから」と、高阪をシアトルの自らのジムにスカウト。事実彼の帰国後も、モーリスの執拗なラブコールは続き(実際、当時ほとんど英会話の出来なかった高阪本人に何度も長電話攻勢を仕掛けたという)、数週間のスパンでの渡米が数回行われた。

だが、MMA勃興期にあり、何事にもチャレンジ精神旺盛で、ある意味滑稽なまでの自信家ぞろいのアメリカ人ジム生たちの大陸的気質は、大いに高阪に刺激となったようだ。
「おかしい話ですけど、アメリカにはむちゃくちゃ強いヤツがゴロゴロいるんですよ。でも、タックルはすごいけど寝技が全然ダメとか、アームロックは一級だけど、他の関節は取れないとか、そんなのばっかりで(笑)。だから僕は、そういうヤツらのへこんだ部分は見ないで、おいしいところだけ吸収できたらいいと思ってたんで。得がたい経験だったかと聞かれれば、日本で味わえない、いい経験をしたと思います」

またシアトルは、パンクラス参戦経験を持つマット・ヒューム率いるAMCパンクレーションの本拠地でもあり、若き日のジョシュ・バーネットやボブ・ギルストラップら集う絶好の練習環境でもあった。また、現在高阪がG-スクェアジムを置く「トータル・フィットネス」の総帥、肉体改造請負人のケビン山崎氏という、人生のキーマンとの出会いの場所でもある。言うまでもなく打撃のエキスパートとしては絶好のコーチである、モーリス・スミスがおり、強くなるための条件は全てそろっていたのである。(ただし、モーリスの饒舌と韜晦癖には、さすがの高阪も若干辟易とする部分があったようだが(笑))

そんななか、97年の10月に、シアトルを舞台に、おそらくアメリカ初の組技系イベント「Contenders」が開催される。トム・エリクソン(アマレスフリー・スタイル130kg級/97年世界選手権4位、98年ワールドカップ2位)は当時、“あまりの強さに戦う相手がいない”とまで言われ、この大会の目玉的存在だったが、やはりこの大会でもマッチメイクが難航。急遽、たまたまモーリスジムに滞在していた高阪に白羽の矢が立ったのである。判定では敗れたものの、当時世界最強の一角と目されていたエリクソンと互角に渡り合った日本人選手の存在に目をつけた人間がいた。

この後、UFCの二代目マッチメイカーに就任するジョン・ペレッティ氏であった。元々、UFCのライバル団体として三回の大会を開催した「エクストリームファイティング」で采配を振るっていたのがペレッティ氏だったのだが、全米に吹き荒れるアンチNHBの流れの中、業績も今ひとつだったこの大会は早々に撤退を余儀なくされ、その後継大会として企画されたのが「Contenders」だったのである。これに先立つ第三回「エクストリーム」大会で、モーリス・スミスは当時、カーウソン・グレイシー一派の四天王と呼ばれていたマーカス・コナン・シウヴェイラをKOしたばかり。ペレッティ氏とのラインの太かったモーリスが、高阪を推薦したのは半ば当然ともいえる流れだったのかもしれない。

98年1月、ライバル団体であるUFCのブッキングマネージャーに起用されたジョン・ペレッティ氏は、モーリスやコナンなどエクストリーム系の優秀な格闘技歴を持つ選手を次々UFCに上げたほか、いち早く階級制の導入を打ち出しカーロス・ニュートン、パット・ミレッティッチらをスカウト(一説には佐藤ルミナにも参戦の内諾を取っていたという)らを獲得。ヘビー級でもマルコ・ファス、バス・ルッテン、ジェイソン・ゴドシーら、技術の高い選手を中心に選手編成を進めたペレッティの先進性は、 “喧嘩ショウ” としてのスキャンダリズムが先行していたUFCに、明快なスポーツ色を与えたものとして高く評価していいだろう。

そのペレッティ登板の第一弾となる、 3月13日「UFC XVI BATTLE IN THE BAYOU」で、かつてホイス・グレイシーをパンチで失神寸前まで追い込んだ、“喧嘩路線“の立役者・キモ(レオポルド)の復帰戦が決まった。対戦相手としてペレッティの脳裏にひらめいたのは半年前、体重140キロのトム・エリクソンと渡り合った日本人青年のことだった。

「高阪なら、キモの喧嘩スタイルに技術で渡り合えると思った。あの試合をキモの復帰戦だとおもっていた人は多かったようだが、私の作りたかったUFCはもう少しレベルの高いスポーツイベントだ。キモが活躍するようでは昔のUFCのままだ。だから、私は高阪にオファーしたんだ」

後にそう語ったペレッティの狙いは、見事的を射抜いた。

リングスでの闘い方をベースに足関節を狙いすぎた高阪は、NHB戦の先輩であるキモに易々とマウントを奪われてしまう。だが、後に“TKシザース“としてこのジャンルの基幹技術のひとつとなる、オリジナルの切り替えしを見せ、絶対のピンチから脱出。逆にスタンドでのスタンドファイトでは、フックをクリーンヒットさせキモの腰を砕いてみせた。延長でもマウントを奪われたもののスタミナの切れたキモの攻めを落ち着いて裁き、逆にインサイドガードからのパンチでポイントを重ね、判定勝利をもぎ取った。

見事な初陣であった。
入場時、オクタゴンを囲む観衆はみな高阪の敵としてブーイングを飛ばしていたにもかかわらず、勝利をもぎ取ったあとは拍手喝さいでこのニューカマーを受け入れる豹変を見せた。

「アメリカのいいところは、人種差別とかいろいろ言われますけど、がんばった奴を認める精神を持ってることだと思うんですよ。試合前はどうでも、いい試合を見せたら“あいつ、やるやないか”みたいな気持ちで拍手してくれるんですね」
かくて“オクタゴンの住人”となることを決意した高阪は、「世界のTK」への道を確実に歩み始める。

高阪は半年後の98年9月に、本拠地をシアトルのモーリスジムに置く形で完全渡米。翌月、さっそくUFC第二戦となるピート・ウィリアムズ戦を戦うため、開催地ブラジルへと向かう。

(以下、第二回に続く)
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