延長戦に“奇跡の逆転”が起きていたら
だが、ここであえて仮定でものを言う事をお許し願いたい。
もし、この延長戦で、魔娑斗のパンチがプアーカオを倒すような事態が起きていたら、この誤審の扱いはどうなったであろうか? 角田審判長の「誤審」評定が、魔裟斗ニ連覇と言う“ハッピーエンド”を覆すことは、なかったのではないだろうか。
僕が今回のMAXでもっとも危険な状況であると感じたのは、この「空気感」にある。
格闘技は勧善懲悪の時代劇とは違う。
如何に人気者であっても、八時四十五分の遠山佐衛門之丞のように毎回リングの上で勝ち名乗りをあげて見栄を切れるものではないし、そうあってはならない。
この日最高の負けっぷりを見せたのも魔娑斗だった。 |
実力で下回れば、容赦なく敗者に落ちぶれる危険と背中合わせである。
だからこそ、魔娑斗も大会前に異例の“勝ち逃げ”宣言を漏らしてしまったともいえる。
逆に言えばそれだけの覚悟を持ってリングにあがり、そして力及ばなかったというだけのことであり、魔娑斗のアスリートしての価値は一向に衰えるものではない。ただ、そんな彼の心情を裏切るような、商業主義判定を忍び込ませてしまったK-1の運営体制は、今回の処分では足りないくらい大きな病根があることを露呈してしまった。
誰よりもこのMAXという場所に自己実現の理想を賭け、誰よりも辛くストイックな環境でこの三年間を走り続けて来た魔裟斗の存在は希有であり、奇跡といってもいい。ただでさえ、過度の“大衆化”路線でK-1全体がファンの信頼を失っている最中、MAXだけが異様なまでの支持を受けているのは何故か? ブルース・リ-まがいのスタントマンやボクサー崩れの選手が戦線に投入されても、ストイックな競技中心主義を一歩も譲らなかった魔裟斗個人の熱が、このシリーズ全体を浄化してきたからに他ならないのではないのか?
誤審の背景にあったのは結局“キャラクタ-優先主義”の安易な空気に他ならない。それを当の魔裟斗に適用してしまった愚を、減給程度の形式的な処分で終わらせていいのかという思いは拭えない。今、魔裟斗自身が、その緊張の限界で現役生活の最終コーナーを見据えている現状なのである。彼がその存在意義を全否定されるようなこの愚弄によって、MAXという場自体に失望してその判断を速めた時に、その穴を埋める材料はもうどこにもない。
今回審判団の“処分”という対症療法を大慌てで発表したK-1だが、“動機”検証をブラックボックスにしたままで、この問題を風化させてはならない。大会主催者には、抜本的なK-1全体の体質改善と、問題の本質的な追求をさらに望みたい。
【関連クローズアップ記事】
2003年9月16日更新
K-1 MAX世界王者・魔裟斗とライバル達の光と影
「欲望とストイシズム」
2003年10月31日更新
K-1 Maxにまで飛び火したボクシング対抗戦
「魔裟斗ついにボクサー戦へ」