■タイソン争奪戦の副産物だった、K-1&PRIDEの呉越同舟状況
後に「格闘家がプロレスのリングへ」というパターンは一部「WRESTLE-1」に受け継がれた。当時経営最高責任者であった森下社長には、「INOKI BOM-BA-YE」の成功で培ったノウハウや人脈を“点”で終わらせずに、そのまま純プロレスのイベントへと発展させたい考えがあった。しかし、それが実現しなかったのには大きな理由があった。なんとその旗頭になってくれるはずのアントニオ猪木氏が、また別の流れをそこで作り出してしまったからだ。
大阪ドームの成功を受けて、猪木氏は2月18日の新日本プロレス興行でホームレスの衣装でリング上に登場した。
「今日、朝の10時45分に1通 のFAXが入って参りました。マイケル・J・スミス というタイソンの弁護士とタイソンの事務所から正式なオファーが入りました。誰が相手をするのか皆さんに決めてもらいたい。今、決まっていることは6月中に実現するということ。これから色んな細かい交渉に入ります。」
爆弾発言だった。
新日本プロレスの最大株主である猪木氏が、あえてホームレスの格好をしたのは、“俺はもうプロレス界というホームグラウンドとは一線を引くよ。これからは自由にリアルファイトの世界でビジネスをやるんだ”という謎掛けに他ならない。いかにも猪木氏らしいパフォーマンスで、自分の興味は既にプロレス界ではなく、ボクシング界をも包括した世界観に傾いていることを表明してしまったのである。こうなると、彼をエグゼクティブプロデューサーに据えたDSEもその戦略に沿った事業展開を推し進めていくしかなくなる。
直後のスポーツ新聞各紙は、この猪木氏の発言を受けて早速「タイソンvs小川、6月ドーム決戦か?」などといったお先走りの記事を掲載し始めた。
だが、タイソン担ぎ出しを考えていたのは猪木氏一人ではなかった。K-1の総帥石井館長は早速、猪木氏の発言に呼応して「タイソン招聘」を表明することになる。 “3月17日横浜アリーナ大会のベルナルドVSバンナ戦の勝者にタイソンへの挑戦権を与える”という、より具体的なビジョンを提示して、猪木氏への鞘当を演じたのであった。
さらに猪木配下の藤田和之が5月27日PRIDE14での高山戦直後“K-1に挑戦したい”と表明。それを受けて、7月29日PRIDE.15 のバックステージで8月19日K-1Japan参戦が正式発表されるという怒涛の展開となる。
かくして両陣営は具体的に交流戦を開催。この大会で行われたミルコvs藤田戦が幕開けとなって、この年末の第2回「INOKI BOM-BA-YE 2001」は“K-1vs猪木軍“の対抗戦というリアルファイト路線に転向。ここでミルコは藤田に続いて、新日本プロレスIWGP王者永田裕志を一発のハイキックで葬り“プロレスハンター”の称号を得、スター街道を驀進していくことになる。
(後編へ続く)
▼【猪木祭三分裂を徹底検証/関連インデックス】
※記事内容は執筆時点のものです。最新の内容をご確認ください。