■弱肉強食の格闘技界。「INOKI BOM-BA-YE」は熟れすぎた果実だった。
もともと、「INOKI BOM-BA-YE」というイベントはPRIDE運営会社のDSEが中心となって2000年末の世紀越えイベントとしてスタート。後に、日本格闘技界の二大メジャーとなったK-1とPRIDEとが手を結び、“夏のDYNAMITE! 冬の猪木祭”という流れで年二回のオールスター的祭典を行っていくというコンセプトが売りとなった。事実、そのコンセプトが定着した2003年シーズンは両興行が満員御礼となり、格闘技メジャー化の象徴ともいえる祭典となっていたものである。
だが、好事魔多し。どんな巨大な堤でも一気に水圧が上がれば、決壊してしまうように、昨年の「INOKI-BOM-BA-YE 2002」が叩き出したTV放映の高視聴率は、その基盤であるイベント首脳陣の内部に芽吹いていたさまざまな方向性を一気に顕在化させ、三派分裂という予想外の崩壊劇を生んでしまったのだった。
元来、格闘技界というのは権勢争いが多く、これまで何度もの分裂劇、組織抗争を行ってきた世界でもある。今回の騒動も、ある意味歴史的、構造的必然の事態という側面があるのは事実だ。
「INOKI BOM-BA-YE」という熟れすぎた果実は、誰もが手にしたくなるような大成功ブランドとなった。その収穫を巡って、関係者同士の思惑が錯綜し、そして骨肉の争いに発展したというのが、残念ながら今回の騒動の原因である。
格闘技自体、最終的に“WINNER TAKES ALL(勝者が全ての報酬を手にする)”という論理で成立している世界であり、共存共栄といった発想には程遠い世界である。仮に種を蒔き花を咲かせるまでは協力できても、収穫時にはその実りを一粒でも多く取り込む野心がなければ成功を手にすることはできない。
特に騒動の台風の目となったアントニオ猪木という人は、そうした離合集散劇を人生の推進力としてきたような部分がある人物でもある。常に安定を好まず、良く言えば冒険的、悪く言えば露悪的なまでに、新しい試みを繰り返し、付いてくる人間を振り回すトリックスター(歴史の転回点で常に常識と逆の振る舞いを行って、新たな展開を作り出す人)であり、その猪木氏をトップに据えた段階で、こうした分裂劇は避けられない事態であったのかもしれない。
■猪木祭は当初DSEのプロレス進出の伏線であった
そもそも全ての始まりは、老舗のK-1と日の出の勢いのPRIDEの両者が急接近した事にあった。きっかけは、2000年の大晦日に大阪ドームで開催された、第1回目の「INOKI BOM-BA-YE」前後から勃発したタイソン招聘競争にある。
その年、猪木氏はPRIDEエグゼクティブプロデューサーに公式的に就任し、リアルファイト業界でも影響力を増しはじめていたところだった。その猪木氏の仲介によって新日本プロレスから藤田和之、石沢常光ら有望な若手がPRIDEのリングに登場する流れが生まれた。 マット界全体の傾向がリアルファイトに傾斜し、そのアイコン的存在として“第2期猪木ブーム”のうねりが起きはじめていた時期だ。
主催会社であるDSEとしては、PRIDEシリーズの成功でプロレス界の外堀を埋めつつ、プロレスファンを本格的に取り込むために純プロレスの興行自体にも乗り出す構想を持っていた。年末の特別イベントとして、大阪のイベンター・ステージア(「真撃」というプロレス系イベントを主催)の企画で2000年の年越しビッグイベントの構想が持ち上がったとき、DSEは猪木氏を看板に据えた「INOKI BOM BA YE」という新シリーズを提唱。“格闘家が純プロレスに挑戦”というPRIDEの逆パターンで、プロレス界参入への伏線を作ろうとしたのだった。