■流浪の天才・佐山聡とシューティング
天才肌で、どこか透徹した世界観を持つ佐山は、ゴッチの弟子たちの中でも特に最左翼に属する理論家でした。
ところが、あまりに抜群の反射神経と運動能力を持っていたために、新日本プロレス時代、梶原一騎原作の人気プロレス漫画「タイガーマスク」のリアル版をやるという事になってしまったのです。今考えると「虚構を現実にする」という意味で、この任務は彼にうってつけの仕事でもあったのですが、リアルファイトを希求する理想主義者の彼に、プロレスでも最もプロレス的な存在であるマスクマンという役割が振られてしまったのは皮肉極まり無い事実でもあります。梶原と佐山のこのコラボレーションはまさに瞬間の交差点であり、その後はまた再び各々の目的地にむかって離別していく二本のベクトルの矢となるわけですが、その先の10年間は、この二人の軌道を左岸と右岸にした「格闘技=リアルファイト」の豊かな三角州の歴史でもあるのです。
佐山は数年の輝かしい記憶を残してタイガーマスクを封印、新日本プロレスを離脱します。その後紆余曲折を経て、スーパータイガーと改名。ひと足先にUWFを立ち上げた“ゴッチ学校の同窓生”たちに合流することになります。しかし、内部の人間関係や路線闘争などがあって、佐山聡は早々にUWFからも離脱。プロレスをベースにしない、真にスポーツ的な総合格闘技を模索して新競技「シューティング」を創設することになるのでした。
これがかなり革新的な行動であったことは言うまでも有りません。それまでのプロレスの“まず興行ありき”という呪縛から離れて、アマチュアの底辺から人材育成を行い、その頂点にプロをおくという発想は、理想的なスポーツ概念に乗っ取った組織構造です。言ってみれば、当たり前すぎるほどに当たり前の事なのですが、プロレス界にはそれまで全くそういう発想で物を考える人がいなかったわけで、そんな流れの中でコロンブスの卵的にそれを実行に移せた佐山という人は、やはり天才と呼ばれるに値する人物だったわけです。
当時のシューティングの実際の技術は、いまとくらべればまだまだ暗中模索だったかもしれません。しかし、この佐山のチャレンジが無ければ、未だに日本の総合格闘技は10年世界に立ち遅れた物になっていたでしょう。事実、ヴァーリトゥードとグレイシー柔術がもたらした、グラウンド顔面打撃の波が日本に押し寄せたとき、具体的な対応の手段を模索できたのはシューティングだけだったのですから。このときの修斗の果たした役割については、この連載のなかでまた別に項目を設けてお話することになると思います。
プロレスと袂を分かった佐山のそうした試みはあくまで水面下のアンダーグラウンドな試みとして、長くマスコミから黙殺に近い扱いを受けます。やはり天才の発想というものは、時代と言うものの中ではどうしても浮き上がってしまうものなのかもしれません。
結局佐山は自ら生み出したシューティングさえも離れ、ふたたび自らの理想を追う孤独の旅にでます。タイガーマスクとしてプロレスに復帰してみたり、猪木とのコラボレーションで新しいプロレス団体UFOを立ち上げて、オリンピックメダリストでもある柔道家小川直也のプロレス界入りをおぜん立てしたりと目まぐるしい動きをした後、再び掣圏道という新格闘技概念を立ち上げました。
今なお多くの問題提起を世に投げ掛け、毀誉褒貶のなかにある佐山の存在ですが、トリックスター的に時代を渡っていくその手法を見ていると、彼はやはり師である猪木の血を最も色濃く受けた存在なのかもしれないと思うことがしばしばあります。
ですが、1980年代後の段階で時代の要請と大衆の支持を受けたのは、残されたUWFのメンバーの方でした。佐山離脱後、一旦は経営破綻で解散状態に陥ったUWFですが、若きリーダー前田日明を思想的中心に据え1988年に再スタートを切ります。
いわゆる“第二次UWF”として、猪木路線の先を見たがっていたプロレスファンに喝さいのうちに受け入れられるとともに、またプロレスをただの肉弾芝居として切り捨てていた一般の人々も巻き込んでいくことになります。よりリアルなスタイルで投げ、打ち、極めるというUWFのダイナミックな試合を眼にして、彼等は“UWFこそ、ボクシングと並んでスポーツ的な格闘技だ”と支持するようになっていったのです。
当時「UWF現象」とまで呼ばれたチケット争奪戦は、こうして一般社会をまきこみ、メジャースポーツへの道を歩み始めました。試合内容こそまだまだ、従来のプロレスのしっぽをひきずったものだったかもしれませんが、このUWFの躍進こそが、「商業格闘技」の地盤馴らしをした最大の功労者であったことは間違いありません。
(次回に続く)
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