明治40年の秋には、慶応大学がハワイからの連合チーム「セントルイス(セミ・プロ)」を招いて試合を行います。慶應は5戦2勝3敗、早稲田は3戦全敗するわけですが、このセントルイス戦が、日本で初めての「有料試合」として挙行されました。慶応大学は、セントルイス招待した費用を得るために60銭・30銭・10銭(当時米1升16銭)と、当時としては高い入場料をとることとなり、この「有料試合」のシステムは明治41年、早稲田がワシントン州立大を招いたときも同様に行われます。有料試合ということで、1・3塁のスタンドも建設され、グラウンド整備も行われ、このとき日本の野球は「見せる野球」という新たな局面を迎えたと同時に、スポーツ興業化の第一歩を踏み出す結果となります。

「初めての赤鬼襲来 ~アメリカプロチーム来日~」

そして、この早稲田・慶應がアメリカチームを招くという中で、日本に初めてアメリカプロチームが来日します。「リーチ・オール・アメリカンズ」がそのチームです。アメリカの運道具商リーチ商会が率いたチームで、来日にはマイナーリーグの選手を主体とし、2名のメジャーリーガーを加えた「リーチ・オール・アメリカンズ」は日本にて17戦全勝と圧倒的な強さを見せつけ、早稲田・慶應ともに4戦全敗と全く歯が立ちませんでした。その強さを物語るエピソードとしては、11月28日に行われた戸塚球場での対早稲田戦において、P・J・デラハンティ(ブルックリン)が投球数73球、試合時間40分で記録に残されている日本最初の完全試合を達成するという快挙があります。また来日第1戦の早稲田戦では、早稲田大学の創設者である大隈重信が日本で初めての始球式を行いました。

「明治末期 ~朝日新聞・野球害毒論の中身~」

アメリカプロチームの力をまざまざと見せ付けられた日本の野球ですが、それから以後もウィスコンシン・シカゴ両大学チームを招き試合を行い、また学生野球出身者が東京倶楽部や稲門倶楽部、三田倶楽部などを設立、早稲田・慶應両校も再びアメリカ遠征を行うなど、各地で盛んに「野球」が楽しまれ、着実に日本野球のレベルアップがなされていきます。
そして、この「明治」という時代も終わりを迎えようとするのですが、ここで大きな「事件」が起こります。東京朝日新聞社が展開した「野球と其害毒」、一般に言う「野球害毒論」です。
時は明治44年8月、東京朝日新聞社が22回にわたり、「野球害毒論」を紙面に掲載します。内容は、時の一大新聞社が掲載したとは思えないような野球論でした。