「声は届いています。はるかの東から……」

W杯からJリーグまで、多くのサッカーを実況してきた山本アナウンサー
「声は届いています。はるか東の方から、何百万、何千万もの思いが、大きな塊になって聞こえてくるようです。遠かった道のりでした。本当に遠かった道のりでした。日本の、世界の舞台に初めて登場するその相手はアルゼンチン。世界が注目するカードです」(1998年6月14日、W杯フランス大会1次リーグ第1戦・日本対アルゼンチン)

この声の主こそ、山本浩(NHKエクゼクティブアナウンサー・解説主幹)だ。

1998年、日本が初めてW杯に出場したフランス大会。その初戦はFWバティストゥータ、MFヴェロンらを擁する南米の強豪アルゼンチン。フランス南部の都市トゥールーズで行われたその記念すべき試合を中継したのはNHKだった。

60.5パーセントの視聴率を上げたこの試合をテレビ観戦した人は多かったのでは。そして、その試合とともに冒頭の実況が記憶に残っている人も少なくないはずだ。私も、TVの前でかじりついて見ていたことを思い出す。結果は、アルゼンチンのFWバティストゥータのゴールで0-1の敗戦。世界が“近いようで遠い”と感じた試合であった。

山本氏は東京外国語大学ドイツ語学科を卒業後、NHKに入局。もともとサッカーの経験はなかったが、専攻がドイツ語だったことがきっかけで、サッカーと深く関わるようになったという。

初のサッカー実況担当は全国中学サッカーだった。そして2番目に赴任した愛媛県の松山放送局にいた1983年、日本代表が松山でキャンプをすることがあった。そこに、臨時コーチとして元西ドイツ代表のベルティ・フォクツが臨時コーチとして来日。その様子をレポートしたことが始まりだった。

その後東京アナウンス室に異動になり、サッカーの仕事が増えていく。そして1986年W杯メキシコ大会の予選、本大会を担当するようになった。以来、20年以上のキャリアの中で実に500を超える試合を放送したという(『メキシコの青い空』より)。

「メキシコの青い空」

山本氏のアナウンサーとしての初めてのW杯、1986年のメキシコ大会だ。

「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」(1985年10月26日、W杯メキシコ大会アジア東地区最終予選・日本対韓国)

山本氏の著書のタイトルは、この言葉から用いられている。日本代表が、それまででもっともW杯の出場に近づいていたときであった。私も小学校のときTVで見たことを覚えているが、W杯に行けなくてショックだった印象のみ、ハッキリと思い出す。

後にフリーキックについての本を執筆したときに、木村和司のゴールシーンの映像を何度も改めて見た。大きく速く曲がるFKは、世界への扉を一瞬開けたようにも見えたのだが……。結局試合は1-2で敗戦。アウェーの第2戦でも0-1で敗れてしまい、初のW杯出場はかなわなかった。

「マラドーナ! マラドーナ!」

「マラドーナ…、マラドーナ…、マラドーナ、来たー! マラドーナァッ!」(1986年6月22日、W杯メキシコ大会準々決勝・アルゼンチン対イングランド)

日本が出場しなかったが、テレビ放映されたこの大会は、日本でサッカーが大きく広まったきっかけとなり、とりわけアルゼンチンのマラドーナの存在は際立って印象づけられた。

それまで、海外のサッカーといえば、旧西ドイツのイメージが日本では強かった。ところが、このアルゼンチンの“神の子”は、このイングランドとの準決勝で、おそらく永遠に語り継がれるであろう2得点を決めた。

それが、いわゆる“神の手”といわれるゴールと、山本氏も絶叫した、“5人抜き”のドリブルでのゴールだ。結局、アルゼンチンは決勝でもマラドーナの決勝点で西ドイツを破り、2度目の優勝を遂げた。

ヨーロッパの多くの選手と違い、小柄でずんぐりとした体型、黒髪のマラドーナは、一躍日本の少年たちを虜にした。当時この試合を見ることが、私の小学校の監督からの宿題だった。私の見た映像は録画放送だったと思うが、この試合の後、近くのサッカーショップでシューズを買ったときに付いてきたマラドーナのポスター(いや、ポスターが付いていたから買ったのだが)が、私の部屋を飾ることになった。

「マラドーナみたいになりたい」と日本でサッカーを始める小学生が増えてきたのは、この大会と、1983年から連載が始まった漫画「キャプテン翼」の影響が多分にあるはずだ。